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おめでとう、葛西選手!   ブルックナー 交響的合唱 「ヘルゴラント」 (AC復興 11)

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ソチ五輪 ジャンプ男子ラージヒルで葛西紀明選手が銀メダル獲得
 
 
 
 おはようございます。ソチ・オリンピックでまた快挙!41歳の葛西選手が7度目のオリンピック挑戦でやっと個人種目で念願のメダル=「銀メダル」を手にしました。
 この日の一本目のジャンプは139メートルの大ジャンプ。ここで2位につけた葛西選手は、いよいよメダルを賭けた運命の2本目のジャンプへ。「風がまちまちなのでどうなるか...。次もいい風もらって、また大ジャンプしたい」と話していた選手でしたが、ここでも風を味方につけて再び133.5メートルの大ジャンプを披露!見事に銀メダルを手にしました。ジャンプを終えた葛西選手のもとに、メンバーが駆け寄り抱き合って祝福する姿が印象的でした。最後まで諦めずに、続けること、まさに中高年の星ですね!
 
 
 さて、今朝はブルックナーの「ヘルゴラント」を紹介することにしましょう。ブルックナーの交響曲やミサ曲は有名で実際に人気もありますが、彼の世俗曲や器楽曲、そしてこの「ヘルゴラント」等はまだ聴いていないというブルックナー・ファンも多くいるのではないでしょうか。「ヘルゴラント」はブルックナーが完成することのできた最後の作品でもあります。この後ブルックナーは交響曲第9番を作曲しますが、周知のようにこの交響曲は完成することがありませんでした。
 
 「ヘルゴラント」はドイツの北西部の海岸線から70キロほどの沖合にある二つの島ー1.0km²の"Hauptinsel" とその東側に位置するやや小さい 0.7km²の"Düne"ーの名前です。元来は一つの島だったのですが、暴風雨によって二つの島に分断され現在の形になりました。
 この島は古くはゲルマン系のフランク王国の支配を受け、その後デンマーク領、イギリス領(ナポレオン戦争により)ドイツ領と時代と共にその領有国が変わり、第2次世界大戦中にはドイツの潜水艦の燃料基地として使われました。大戦の最中、1945年4月18日には連合国の空爆により、ドイツ側の128人の対空砲火要員の大部分が死亡したとされています。終戦後はイギリスの領有国になりますが、45年~52年にかけて、イギリス軍の爆撃訓練場として使われ、、特に47年4月18日には、イギリス海軍によって6800トンもの爆弾が使用されるという未曾有の爆破計画が実施されました。この大爆破の5年後の、1952年に「ヘルゴラント島」はドイツ連邦共和国(当時の西ドイツ)に返還されています。
 
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 ブルックナーの「ヘルゴラント」は1893年に「ウィーン男声合唱協会(Wiener Männergesangvereins)」の創立50周年のために作曲された世俗カンタータです。1843年に設立された「ウィーン男声合唱協会」はウィーンで最初の合唱団でもあり、ヨハン・シュトラウスは「美しき青きドナウ」をこの合唱団のために作曲し、ブルックナー自身が副指揮者を志願したこともあるという由緒ある合唱団の一つです
 
男声4部合唱とオーケストラのための作品、「ヘルゴラント"Helgoland"」のテキストはドイツの詩人、アウグスト・ジルバーシュタイン(August Silberstein 1827~1900年)の詩集、我が心の歌 "Mein Herz in Liedern"」に収められた短詩から採られていますが、ジルバーシュタインのこの作品には強いドイツの民族主義的色彩が織り込まれています。1890年に「ヘルゴラント島」がドイツとイギリスとのあいだで結ばれた「ヘルゴラント=ザンジバル協定」によってドイツ領として公に認められたことも、その一因となりました。二人の出会いは「ゲルマン人の行進で」という作品で、この作品はブルックナーが最初に出版した作品でもあります。ブルックナーは他にも、「祖国の酒の歌」、「祖国の歌」等のジュルバーシュタインの詩に男声合唱の音楽を付けていますが、奇しくも最初の出版作品と最後の完成作のテキストが、ジュルバーシュタインの詩になりました。
 
 
 
 
 ジルバーシュタインの詩には北欧の荒波の中を来襲してくるローマ人とそれを怖れるザクセン人の島民、そして祈りと嵐、稲妻と雷鳴を通してのローマ人の全滅と島民の神への讃美が謳われていますが、強大な敵(ここではローマ人)に対するザクセン人の勝利とドイツ領となった「ヘルゴラン島」の祝福が作品全体の強いモチーフとなっています。
 
 ブルックナーは「ヘルゴラント」の作曲に晩年の1893年頃に取り掛かったと考えられています。(自筆の初期のスケッチに[1893年」4月20日と記されています)尚、この頃ブルックナーは既に交響曲第9番の最初の2楽章を書き上げていました。「ヘルゴラント」のスコアのスケッチは27日に行われ、弦(6月18日)、合唱(6月24日)、木管(7月7日)、金管(7月23日)と次々にスコアのパートが出来上がっていき、8月7日には作品が完成しました。このあと若干の手直しを経て、1893年10月8日、「ヘルゴラント」は皇帝の臨席するウィーン男声合唱協会創立50周年記念演奏会で初演されています。この初演は大成功に終わり、ブルックナーは皇帝から席に招かれて直接賞賛の言葉を頂いたと言われています。
 
 「ヘルゴラント」は4つの部分から構成されています。
 
 交響的合唱(Symphonic Chorus) 「ヘルゴラント"Helgoland" ト短調 
  「力強く、急がずに」
 
  1.ローマの来襲と島民の恐れ ト短調 56小節
オーケストラのトウッティの劇的な4小節の前奏曲で始まり、ト短調の分散和音的な音型が上行、下行しながら北海の荒波を描写する。続いて合唱が「北海の沖合はるか果てに」と第1主題を歌いはじめる。これが一段落すると、戦いを表す信号ラッパのリズムがホルンに残る。後半は無伴奏の合唱となり、これに挿入されるホルンのリズムが島民の運命を予感させる。
 
  2.島民の祈り ハ短調、変イ長調 104小節
第2部は3つの部分に分けられる。1部はトウッティで始まり、合唱が主要主題を展開させてゆく。ホルンが信号リズムを刻む中、やがてクライマックスを迎え、「熱烈な祈りを天に向かって捧げた」と歌われる。これがディミヌエンドしてイ長調に転調し、2部に入る。2部は木管の3連音に乗って第1テノールが「御身、雲の間に座し、雷を御手に持ち・・」と歌う。この祈りの主題は3声を伴って変奏、反復され、ト長調に展じ、音楽が再び勢いを増して「嵐と稲妻で敵を打ち砕きたまえ」という島民の祈りの歌が歌われる。3部は「万物の父よ!死と過酷な苦難からの救い主よ!」という呼びかけの部分で、信号部分が重厚に鳴り響く中、合唱が「万物の父よ!」と繰り返して呼びかけていく。
 
  3、嵐、稲妻と雷鳴 ヘ短調、ロ短調 44小節
第3部は2つの部分に分かれる。まず合唱が「するとみよ、うねりながら襲いかかる波が」と第2部の冒頭と同様の音楽で嵐の情景を歌い、これが展開されていきfffの半音階的下降を経て2部へと続いてゆく。2部は「炎を上げる矢がきらめきつつ射出され、雷鳴が鳴り渡る中を船に降り注ぐ」という場面で、音楽は一瞬静まり、トレモロで開始される。祈りの主題には新しい動機が対立して展開され、やがて音楽はヘ短調へと転調し、静かに第4部へと続いてゆく。
 
  4、ローマ船の全滅と神への讃美 ト短調 ト長調 113小節
第4部は第1部前半の再現(ローマ軍の滅亡)、第2部の副主題(祈りの主題)に基づくオーケストラの間奏、そしてコーダの3つの部分で構成される。導入部の4小節の再現はppで行われ、これに合唱が入ると忠実な再現が始まる。短い総休止を挟んで2部ーオーケストラの間奏部分に入り、「祈りの主題」が展開されてゆく。曲は主和音を終止させて3部ーコーダへと入ってゆく。ここでは「おお、主なる神よ、御身を自由なヘルゴラントが讃える」と繰り返される。ホモフォニックな合唱の響き、木管に聞かれる装飾的な音型、トランペットで演奏されるコラール、これらの要素が互いに絡みながら展開してゆき、クライマックスでト長調の主和音に戻る。ここでシンバルが打ち鳴らされ、金管が高らかに祈りの主題を回想して曲を締めくくる。
 
 「ヘルゴラント」はブルックナーが完成した最後の作品、声楽曲であるにもかかわらず、現在のところほとんど演奏される機会はありません。それどころか、レコード録音もダニエル・バレンボイム以外の指揮者が行ったという記録がありません。バレンボイムは2度ブルックナーの交響曲全集を録音しています。(1度目はシカゴ交響楽団、2度目はベルリン・フィル)幸運にもバレンボイムはこの二つの全集にそれぞれ「ヘルゴラント」を加えて録音ー2度録音しています。(個人的にはシカゴ交響楽団との演奏を好んでいますが)今日は当時指揮者としても絶頂期を迎えつつあったバレンボイムがシカゴ交響楽団を指揮した演奏で「ヘルゴラント」をお届けしましょう。シカゴ響とのブルックナー交響曲全集はシカゴ響の卓越した技術を十二分に活かして、音響的な次元での際立った解釈が魅力的なものになっていました。惜しむらくはそこにゲルマン的な精神が希薄であったことです。(バレンボイムは後にこの点を矯正しようと、2度目の全集のオーケストラにはベルリン・フィルを起用します!しかしこの意図は必ずじも成功したとは言えない結果に終わっていました)
 
 「ヘルゴラント」ーブルックナーの残した最後の完成作品。この作品は世俗的な要素が強いものの、ブルックナーの残した声楽曲の逸品だと評価しています。それではお送りしましょう。お楽しみください。
 
 
 
 
  
 
「ヘルゴラント」
 
 はるかな辺境の地、北海の遠い島に、
たれ込める雲のように数隻の船が姿を現した。
 
ザクセンの島にローマ人たちが向かってくる
 清らかに保たれてきたこの所に、木々に囲まれた平和な家々に、
おお、なんという災難だろう。住人たちは敵の襲来を知る。
敵は生きるのに必要なものばかりか、生命をも奪うのだ!
 不安に駆られて住人たちは岸辺に急いだ。涙にくれて遠くを見つめても何になろう。そのとき知恵のある者たちの胸から、
天に向かって熱心な祈りが捧げられた。 
 
 雲の中に座し、雷を御手に持ち、嵐の上に住まわれるお方よ、
我らを顧みたまえ! 
灰色の嵐を、赤い稲妻の火を荒れ狂わせ、敵どもを打ち砕きたまえ、
全能の父よ! 死と、苛酷な苦痛より我らを救いたまえ!
 
 すると見よ、打ち寄せる大波が、わき立つ泡とともに高く舞い、
風は鋭い唸りを発し、
あたりで最も明るい帆の色さえ暗くなった!
 海の恐怖が自らを解き放ち、マストを折り、へさきを砕く。
稲妻の炎がきらめく矢となり、
とどろきわたる雷鳴の中で船に突き刺さる!
 
 敵は、略奪者は、海深く砂底に沈み、
狙われた獲物は無事に生き残った。船の破片が島に漂ってくる。
おお主なる神よ、自由なヘルゴラントは御身を讃える!

根岸一美訳「ブルックナー・マーラー事典」によるもの
 
 
ダニエル・バレンボイム指揮
シカゴ交響楽団(1972~81年録音)
 
 

エルトン・ジョン 「イエス・イッツ・ミー」

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 こんにちは、訪問していただいた方からかつての記事に"nice!"を頂きましたので、今日の午後は大の御贔屓の一曲、エルトン・ジョン(Elton John)の歌う、「イエス・イッツ・ミー "It's Me That You Need"」を再びお送りすることにしましょう。
 
 この作品は69年にイギリスで、そして翌70年にはアメリカでシングル・カットされた作品ですが、残念なことにどちらの国でも全くヒットに繋がりませんでした。ところが、日本で「ユア・ソング」に続くシングル・レコードとして71年に発売してみたところ、「ユア・ソング」を凌ぐヒットとなった曲です。いわば日本だけでの大ヒット曲!「イエス・イッツ・ミー」はエルトン・ジョンが初めてオーケストラをバックにして歌った作品で、日本での彼の人気を決定付けた曲でもあります。
 
 実は私が初めて買ったエルトン・ジョンのシングル・レコードがこの「イエス・イッツ・ミー」でした。当時はまだ小学校5年生の頃!エルトン・ジョンの絶唱する"Yes it's
me, yes it's me, yes it's me"と歌われる自信過剰ともいえる歌詞と、その美しいメロディーに小学生の男の子のこころがすっかりと魅了されてしまったのも、また懐かしい思い出です!! アメリカやイギリスでなぜこの曲がヒットしなかったのかは分かりませんが、個人的には今聞いてもエルトン・ジョンの魅力を充分伝えてくれる名曲だと思っています。それではお楽しみ下さいね。
 
 
 
 
 
 
"It's Me That You Need"
 
Lyrics: Bernie Taupin Music: Elton John

Hey there
Look in the mirror
Are you afraid you might see me looking at you
Waiting, waiting at windows
Oh it's me that you need
Yes it's me and I'm waiting for you
But I remain silent
Oh I won't say a word
I leave you to realise I'm the light in your world

And it's me, yes it's me, yes it's me, yes it's me
That you're needing
It's me, yes it's me, yes it's me, yes it's me
That you need
Yes it's me, yes it's me, yes it's me
If you want to be living
I'm the one who's forgiving
Admit that it's me that you need

Watching, watching the swallows fly
It all means the same
Just like them
You can fly home again
But don't, no don't forget yesterday
Pride is an ugly word girl
And you still know my name
But I remain silent
Oh I won't say a word
I leave you to realise I'm the light in your world

And it's me, yes it's me, yes it's me, yes it's me
That you're needing
It's me, yes it's me, yes it's me, yes it's me
That you need
Yes it's me, yes it's me, yes it's me
If you want to be living
I'm the one who's forgiving
Admit that it's me that you need
 
 
 

「イエス・イッツ・ミー」
 
さあ、
鏡を覗いてごらん
僕が君を見ているのが見えるのが怖いの
窓の所で待ってる、待ってるよ
君に必要なのは僕
そう僕なんだ 僕は君を待ってる

でも僕は黙っていよう
一言も言わないよ
そのうちにわかるから
僕が君の世界の光だってこと

そう僕なんだ 僕なんだ
僕なんだよ、君に必要なのは
僕なんだ 僕なんだ
僕なんだよ、君に必要なのは
君が生きていたかったら、僕なのさ
君の罪を許すのは、僕
君に必要なのは僕だって事を認めてよ

つばめが飛ぶのを見てる、見てる
それも全く同じこと
つばめと同じように君も飛んで家に帰るがいい
でも、忘れないで、昨日のことを忘れないで
プライドってのは酷い言葉だよ
それに、君はまだ僕の名前を覚えているね
 
そう僕なんだ 僕なんだ
僕なんだよ、君に必要なのは
僕なんだ 僕なんだ
僕なんだよ、君に必要なのは
君が生きていたかったら、僕なのさ
君の罪を許すのは、僕
君に必要なのは僕だって事を認めてよ


 
 
 
 


 

 
 


 
 

 

マンロウ テレマン 組曲イ短調 TWV55 A3   (AC復興 12)

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 こんにちは、今日の午後は純粋に御贔屓にしている名曲、テレマンの「組曲イ短調」をデイヴィッド・マンロウのリコーダーとネヴィル・マリナー指揮の名演奏で紹介することにしましょう。
 
  テレマンについては彼の作品数のあまりの多さと、その玉石を混交したような作品群に驚きの念を禁じ得ませんが、この(リコーダーと弦楽器と通奏低音のための)組曲イ短調TWV55 A3は、彼の作曲したリコーダーの作品の中でも傑作とされています。テレマンはまだ楽譜を書くことができなかった幼少の頃から、リコーダー(当時はフルートといえばリコーダーのことを指すのが一般的でした)に親しんでいたという逸話が残っていますが、この作品は彼のリコーダーという楽器を知り尽くした職人技ともいうべき作曲術が充分に楽しめる出来上がりとなっています。 
 
 
 
 
 この組曲イ短調を初めて聞いたのは、デイヴィッド・マンロウのリコーダーとネヴィル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団の演奏でした。しかしここでマンロウの繰り広げるリコーダーの妙技は、まるで水を得た魚のような素晴らしいもので、その縦横無尽に展開されていく彼のリコーダーの響きは、マンロウがオランダのフランス・ブリュッヘン、ドイツのハンス・マルティンリンデらと並ぶリコーダーの最高の名手の一人であったことを知らしめてくれるのに充分なものでした。マンロウの素晴らしい名演の数々のCDでの再発売が望まれます。
 
 「組曲イ短調」は次の7つの曲から構成されています。

 
 1、序曲 Ouverture 5:28
 2、楽しみ Les Plaisirs  2:36
 3、イタリア風アリア Air a I'ltalien  5:50
 4、メヌエットⅠ&Ⅱ Menuet Ⅰ&Ⅱ  3:05
 5、喜び Rejouissance  2:18
 6、パスピエ Passepied Ⅰ&Ⅱ  2:00
 7、ポロネーズ Polonaise  2:29

 
 フランス風の序曲に続いて、アリア、メヌエット、ポロネーズとテレマンによるリコーダーの妙技を鏤めた曲が次々に展開されていきますが、この組曲イ短調はそれぞれの曲が慈しみ深さと悲しさとを持ち合わせた、滋味あふれるテレマンの逸品です。またイ短調という調性が不思議に聞く者の心に深く染み渡ってきます。この作品はリコーダーを中心に使っている所と楽曲の構成からバッハの管弦楽組曲の第2番と相似関係にあることも指摘されていますが、バッハの管弦楽組曲と比しても、決して退けをとるものではありません。
 
 それでは今日はデイヴッド・マンロウのリコーダーとネヴィル・マリナー指揮のアカデミー室内管弦楽団の名演奏で、テレマンの組曲イ短調の全曲をお送りしましょう。お楽しみください。しかし残念ながらこのCDは長らく廃盤になったままです。マンロウの名演の一つの復活をレコード会社の方が真摯に検討されることを望みます。
 
 尚、TWVという作品番号はTelemann-Werke-Verzeichnis (TWV)あるいはTelemann-Vokalwerke-Verzeichnis (TVWV)のことで、Verzeichnisseiner WerkeMartin Ruhnkeが整理し、1984年から刊行中のカタログの番号、ベーレンライターの「テレマン選集」に対応しているものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

リュートの調べ 佐藤豊彦 「グリーンスリーヴス」  (AC復興13)

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 こんにちは、今日の午後は佐藤豊彦の弾く、美しいリュートの音色をお送りすることにしましょう。佐藤豊彦のリュート演奏はこのブログでも幾度か採りあげていますが、今日は彼の出世作となったアルバム、「グリーンスリーヴス、涙のパヴァーヌ 佐藤豊彦リュート・リサイタル」の冒頭に収められた「グリーンスリーヴス」を紹介します。
 
 ご存知のようにルネッサンス時代に全盛を誇ったリュートは、バロック時代にルネサンス・リュートからバロック・リュートへと形態を変え、依然としてその人気を保っていました。バッハがリュートを愛し、その作品を残しているのは有名です。もちろんそこには彼の友人であった当時最高のリュート奏者であり作曲家と称された、シルビス・レオポルト・ヴァイスの存在が大きく影を落としていることを忘れてはいけません。またバッハの弟子にはクレプスというリュートの名手もいました。ルネサンスからバロック期にかけて隆盛を誇ったリュートも、ギターなどの音量が大きく表現の幅の広い他の楽器の興隆により、一時はその姿を完全に消してしまうことになります。しかし20世紀に入りリュートは奇跡的な復興を成し遂げます。そのリュートの復興に大きな功績を残したのがドイツの名リュート奏者、ヴァルター・ゲルヴィッヒでした。
 
 音楽学者の皆川達夫さんの話によれば、大学での音楽史の講義(リュート)の時間に、一人の学生が燃えるような眼差しで真剣に皆川さんの講義に聞き入っていたそうです。講義の終了後、その学生が皆川さんの許に訪れ、「今日のリュートの話を聞いて、リュートを勉強したくなりました」と語ったということです。学生の名前は佐藤豊彦!もちろん現在リュート奏者として世界中で活躍されている佐藤さんのことです!!
 
 佐藤豊彦は現在のリュート奏者の第一人者として世界的な活躍をし各地で高い評価を得ています。佐藤さんは立教大学出身で、在学中に音楽史を皆川達夫さんに、大沢一仁さんにギターを、そして作曲を呉泰山に学んで研鑽を積みました。そして68年にはスイスに留学しバーゼルのスコラ・カントルムでリュート奏者のオイゲン・ミュラー・トンボワ(彼はヴァルター・ゲルヴィッヒの弟子にあたります)の下で学び、71年には世界で初めてバロック・リュートのアルバムを出し現在に至るまで第一線で活躍を続けています。
 
 
                         
 

 
 今からもう20年以上も前のことになりますが、フィリップスから発売された彼のアルバム「グリーンスリーヴス、涙のパヴァーヌ 佐藤豊彦リュート・リサイタル」を初めて聴いて深い感動を覚えたことは今でもはっきりと記憶しています。ヴァルター・ゲルヴィッヒ譲りの(爪を使わない)指頭奏法によるそのリュートのまろやかで温かい響きは、こころの琴線に触れるものがありました。今日紹介する「グリーンスリーヴス」は作者不詳ともイギリスのリュート音楽家のフランシス・カッティングのものともいわれている作品で、有名なイギリス民謡の「グリーンスリーヴス」の旋律に基づく変奏曲です。
 
 それでは佐藤豊彦の演奏する「グリーンスリーヴス」をお楽しみください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ブルショルリ  ブラームス ピアノ協奏曲第2番 (AC復興14)

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  今晩は、今夜はモニク・ドゥ・ラ・ブルショルリのピアノ、そしてロルフ・ラインハルト指揮シュトゥットガルト・プロ・ムジカ管弦楽団の演奏でブラームスの傑作、ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83をお送りしましょう。ブルショルリの演奏では以前モーツアルトのピアノ協奏曲第20番K.466を紹介しましたが、このブラームスも忘れることのできない名演奏となっています。
                                                              
 ブラームスのピアノ協奏曲第2番は彼が第1番ニ短調作品15(1857年に完成し59年に初演)を24歳の時に作曲してから実に22年の歳月を経て、再びピアノ協奏曲に挑んだ作品です。ピアノ協奏曲第1番も大曲ですが、やはり24歳という若さで作曲された作品ですから、どこか青春の気負いを感じさせる点や、全曲を通してピアノの技巧を誇示した結果の独奏ピアノと管弦楽とのアンバランスさなどが気になります。しかし若干24歳でこの作品を完成させたあたりは、ブラームスの持っていた才能の確かさも感じさせるもので、初期の彼を代表する作品であることに違いありません。第2番ほどではありませんが、現在ではこの第1番も愛聴している作品です。                                                          イメージ 2 
 22年という長い時を経て作曲されたこのピアノ協奏曲第2番は単にピアノの技巧のみを誇示するピアノ協奏曲ではなく、より総合的な独奏ピアノとオーケストラによる交響曲という発想で作曲されました。このあたり、20年近い時を経て作曲された「交響曲第1番」を連想させるものを持っていますね。
 
 実は22年という歳月はブラームスにとって必要不可欠な年月の流れでもありました。管弦楽法は円熟し、ピアノにも最高度の技巧が要求されますが、その両者が渾然一体となって一種の交響協奏曲の様相を呈し、深い芸術性を湛えているあたりは見事!また形式的にも従来の「急ー緩ー急」という3楽章制を打ち破って、第2楽章にスケルツォを持ってきた4楽章制を採っています。形式的には第2楽章にスケルツォを採用したブルックナーの8番や9番(未完成ではありますが)の交響曲の先駆とも考えられるものでしょうか。
 
 
 全曲の構成は以下のようになっています。
 
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ 変ロ長調 4/4拍子Allegro non troppo
第2楽章 アレグロ アパッショナートニ短調 3/4拍子Allegro appassionatoースケルツォ
第3楽章 アンダンテ 変ロ長調 6/4拍子Andante
第4楽章 アレグレット・グラツィオーソ 変ロ長調 2/4拍子Allegretto grazioso

 
 
 私がこの作品を初めて聞いたのが高校1年生の頃、当時買った演奏はウラジミール・ホロヴィッツのピアノとトスカニーニ指揮のNBC交響楽団によるカーネギー・ホールでのライブ録音のLPでした。(ホロヴィッツ&トスカニーニによるピアノ協奏曲第2番には2種類ほどの録音がありますが、この時は40年録音のLPでした)あのホルンの第1主題が流れてきます。これを聞いて15歳の少年は「随分渋い音楽」などど思ったものでしたが、続くホロヴィッツのピアノのテクニックに驚愕!この時以来この作品はあらゆるピアノ協奏曲の中で最も愛聴して止まない1曲になりました。現在ではベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」よりも好んで聞いています!
 
 音楽が進み、第2楽章のスケルツォに。ここでもホロヴィッツの凄まじいまでのテクニックとトスカニーニの魂魄の指揮にすっかり圧倒されてしまいました!しかし、その底流にあるのは紛れもなくブラームスの奥深いその天賦の音楽性!この豪快な男性タッチの音楽の響き!!しかしそこには同時に一抹の寂寥をも感じさせます。また第3楽章のチェロで演奏される滋味深いアンダンテ!!この憂いを含んだ楽章はまさにブラームスの独壇場。そして迎えた終楽章、ブラームスはここで古典的なロンド形式を採っています。しかしその音楽は軽快で明るいもの。この楽章はブラームスがこの作品を作曲中に行った2回目のイタリア旅行の影響が現れているといわれていますが、決して表面的な明るさに終わることなくその一音一音に彼のこころの嘆息が偲ばれるあたりはさすがにブラームスのソノリティそのものですね。

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 今回紹介するブルショルリとロルフ・ラインハルトの演奏はモノラル録音ではありますが、両者の競演が圧巻!(録音は1952年)殊にブルショルリのピアニズムは男性的な豪快なピアニズムと女性らしい繊細さとを同時に兼ね備えた素晴らしいもの。その堅固な構築性と聴く者を圧倒するようなピアニズムは一聴に値するもので、このブラームスの一大傑作の魅力と真価を伝えて余りあります。ここでのブルショルリのブラームスの音楽そのものと真正に対峙し、一音たりとも忽せにすることのない厳格な解釈は、録音から60年を経た現在でも大きな説得力を持って私たちのこころに訴えかけてきます。ラインハルトの指揮は音色がやや明るめでもう少しゲルマン色が欲しいところではありますが、しっかりとブルショルリをサポートしているのはさすがです。この演奏は現在でもホロヴィッツ&トスカニーニ、リヒテル&ムラヴィンスキー等の演奏と並んで現在でも愛聴して止むことのない名演奏です。不慮の事故によってブルショルリがピアニストとしての活動を断念せざるを得なかったのが、返す返すも残念です。

 その他の女流ピアノストの演奏ではエリー・ナイ&コンヴィチュニー(55年録音・モノラル)そしてジーナ・バッカウアー&スクロバチェフスキー(60年代・ステレオ)あたりが男性のピアニストにも決して劣ることのない素晴らしい演奏を聞かせてくれました。
 
 今朝はモニク・ドゥ・ラ・ブルショルリのピアノ、そしてロルフ・ラインハルト指揮シュトゥットガルト・プロ・ムジカ管弦楽団の演奏でブラームスの傑作、ピアノ協奏曲第2番の全曲をお送りしましょう。お楽しみ下さいね。
 
 また嘗てアップしたホロヴィッツ&トスカニーニの演奏の記事のURLはhttp://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/54205931.htmlまたブルショルリのモーツアルト・ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466のURLはhttp://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/62972451.htmlです。
 
 
 
 
 
 
ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 Op.83
Brahms Piano Concerto No.2 B-dur op. 83

第1楽章 Allegro non troppo   16'54
第2楽章 Allegro appassionato(Scherzo スケルツォ)   8'33 (25'27)
第3楽章 Andante   11'26 (36'53)
第4楽章 Allegretto grazioso   8'44 (45'37)
(*計測時間には誤差が含まれています*)

モニク・ドゥ・ラ・ブルショルリ (ピアノ)
Monique de la Bruchollerie (piano)

ロルフ・ラインハルト指揮 シュトゥットガルト・プロ・ムジカ管弦楽団
Rolf Reinhardt conducting Pro musica Orchester

1952年12月 シュトゥットガルト ヤンセン・スタジオ (モノラル monaural )
 
 
 
 
 

ハインリッヒ・イザーク  「使徒のミサ」 (AC復興 15)

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強風(こわかぜ)に父を慕うか彼岸花
 
 
 二百十日も過ぎ、野分が吹き抜ける頃、彼岸花がまるで手を差し伸べるように頭を垂れながら、何度も墓に向かってお辞儀をしている。亡き父を思って墓石にお辞儀をしているのだろうか。
 
 父を亡くしてもう十年以上もの月日が経ってしまいましたが、折りあるにつれ、父のことを今でも想う日があります。上の句は一昨年に台風の影響で野分が吹く中、彼岸花が手を差し伸べるように揺れている姿を見て詠んだ一句です。
 
 さて、ルネサンスとバロック時代のミサ曲第5回目の今日は再びルネサンス時代へと戻り、ハインリッヒ・イザークのミサ曲、「使徒のミサ」を紹介することにしましょう。
 
 ハインリッヒ・イザーク(Heinrich Isaac 1450年頃~1517年はフランドル楽派を代表する作曲家の一人で、ジョスカン・デ・プレと同時代に活躍しました。イザークの功績はジョスカンに比肩位し得るほど大きなものなのですが、なぜか日本では「インスブルックよさらば "Innsbruck,
ich muß dich lassen " 」一曲だけで高名になっています。イザークはフランドルに生まれ、若い頃にはイタリアに留学して音楽を学びましたが、このあたり当時の音楽家の慣習としてジョスカン・デ・プレと同じ道を歩いていた事は興味深いものがあります。また彼はジョスカンとは深い因縁で結ばれてもいました。1484年、イザークはロレンツォ・デ・メディチの招きでフィレンツェ(フローレンス)を訪れ、以後1493年までメディチ家に仕えることになりました。この時期には、同時にフィレンツェの大聖堂などで聖歌隊の歌手を務め、ロレンツォの子女の音楽教師も務めていますが、この最初のフィレンツェ訪問の際にイザークはフィレンツェ生まれのピエロ・ベロと親交を結び、後に彼の娘バルトロメアと結婚(1495年)をします。以後イザークはウィーンとフィレンツェに居を構え、生涯を過ごしますが、晩年はフィレンツェに対する思いが強く、フィレンツェで暮らし、この地で没しています。
 
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 メディチ家がフィレンツェから追放された後、1496年にイザークはハプスブルク家の宮廷作曲家となり、47年頃には神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン1世に士官、イタリアやオーストリア等のヨーロッパの諸国及びドイツ各地を旅行しドイツ音楽の発展に多大な功績を残しました。皇帝マクシミリアンの下では外交的な役割も果たしたといわれています。
 1502年、それまでとは異なった体調の不具合を覚えたイザークはイタリアに戻りフィレンツェのサンタ・マリア・ヌーボー病院で治療を行います。「死」を身近に感じたイザークはこの時期に妻に宛てた最初の遺書を書いています。
 
 この年、1502年にイザークは妻のバルトロメオと僅か2日間だけ音楽家の最大のパトロンの一人であったフェラーラのエステ家の当主エルコレ公の下を訪ねています。これはヨハネス・マルティーニの後継として、エルコレ公がお抱えの聖歌隊の楽長を公募したためでしたが、当時の公の宮廷聖歌隊はヨーロッパでも最高の音楽組織として遍く知れ渡っていました。公から楽長として白羽の矢が立てられたのは当時フランドルで最高の作曲家であった二人、ハインリッヒ・イザークと、ジョスカン・デ・プレ。エステ家に伝わる当時の使者の書簡が残っていますー「当家のお抱え作曲家としてはイザークを採用するのが他の者よりも良い選択だと思われます。イザークは休むことなく新しい作品を書き続けることができます。よくジョスカンの作品の方が優れているとは言われますが、彼は自分が書きたい時に作曲をし、他人のために作曲をすることはございません・・・。」このように使者はイザークを推薦しましたが、エルコレ公が選んだのは、ジョスカン・デ・プレでした。ジョスカンはエルコレ公のために「ミサ・フェラーラ公・エルコレ」という傑作を残していますが、イザークもまたモテット「ラ・ミ・ラ・ソ・ラ・ソ・ラ・ミ」を作曲しています。
 
  1508年、コンスタンツ大聖堂からその生涯の大作、「コラリス・コンスタンティヌス(コンスタンツ大聖堂の合唱曲)Choralis Constantinus」の作曲を依頼されたイザークは、すぐさま作曲に取り掛かり、「コラリス・コンスタンティヌス」は翌年の1509年に弟子のルードヴィッヒ・ゼンフルの手を借りて完成されますが、一年分のミサにあたる固有式文を総て作曲した全3巻、99曲にも及ぶ大作で、音楽史上極めて重要な作品とされています。年間を通した全ての教会での典礼音楽をほぼ一人で僅か1年ほどの間に書き上げているわけですから、イザークの作曲家としての才も並大抵のものではありません。このことからも分かるように、イザークが本領を発揮したのは実は宗教曲の分野でした。「インスブルックよさらば」も名曲ではありますが、個人的にはこの作品のメロディーは民謡の旋律を使ったものか、その旋律を基にしてイザークが創作したものではないかと思っています。(残念ながらその民謡を特定することはまだ出来てはいませんが)
 
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 イザークは1514年にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂Cattedrale di Santa Maria del Fiore)の聖歌隊の楽長に任命され恩給を得ることができますが、当時の彼は依然としてマクシミリアン1世からも支給を受けており、晩年には経済的に十二分にゆとりのある生活ができていたようです。大聖堂の楽長に就任して3年後の1517年3月26日、イザークは惜しまれつつこの世を去ります。メディチ家出身の教皇レオ10世はイザークの死の直前に彼の音楽を聴くためにフィレンツェに趣き、その音楽を聴いて感動したと伝えられています。教皇レオ10世ージョバンニ・デ・メディチーはイザークが以前仕えていたロレンツィオ・イル・マニフィコの息子に当たり、かつてはイザークから音楽の手ほどきを受けていたのでした。メディチ家はレオ10世が教皇になったことで、再び権勢を誇ることになります。また夫に先立たれたイザークの妻、バルトロメアは彼が世を去った17年後の1534年5月30日にその生涯を終えています。
 
 「使徒のミサ」ー「ミサ・デ・アポストリス "Mass de Apostolis"」は6声で書かれたミサ曲でーSSATBrTーS/ ソプラノ、A/アルト、T/テノール、Br/バリトン、B/バスー使徒の祝日に歌われるグレゴリオ聖歌が定旋律に使われていますが、一聴して当時の一般的な伝統に則ったミサとは異なることにすぐ気づかれることでしょう。1500年頃のドイツやオーストリアではそれまでの伝統的なフランドルのミサとは違って、単旋律の聖歌とポリフォニーの声部がそれぞれのチャプターの中で交互に歌われることが慣習とされていました。従ってこのミサ曲の各チャプターでは総てモノフォニーとポリフォニーが交代で歌われながら楽曲が進められていきます。チャプターの途中でモノフォニー旋律ーグレゴリオ聖歌によって楽曲の流れが中断してしまうのは、作曲家にとって大きな制約ともなりますが、イザークはこの制約の中で、極めて自然な形でテキストを活用してポリフォニーの世界を繰り広げていきます。この意味でも「使徒のミサ」はイザークの傑作ミサの一つです。
 
 「使徒のミサ」は「キリエ」、「グローリア」、「サンクトゥス・ベネディクトゥス」、「アニュスデイ」の4つのチャプターで構成されています。ミサ曲を聞きなれた方なら「おやっ!」と思われることでしょうが、「クレド」が作曲されていません。「クレド」が省略されているのは当時のドイツ語圏では「クレド」がミサの中に含まれていなかったためですが、イザークは単独では何曲かの「クレド」も作曲しています。今日はこのイザークの傑作ミサをタリス・スコラーズの演奏でお届けします。お楽しみ下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 ハインリッヒ・イザーク(Heinrich Isaac 1450年頃~1517年)
 
「使徒のミサ」ー「ミサ・デ・アポストリス "Mass de Apostolis"」(6声) 29 :00
 
「キリエ」 7:58
「グローリア」 10:48
「サンクトゥス・ベネディクトゥス」 5:56
「アニュス・デイ」 4:18
 
ピーター・フィリップス指揮  Derected by Peter Phillips
タリス・スコラーズ              The Tallis Scholars
 
 
 
 

生命への自覚 シュッツ「葬送の音楽 "Musikalische Exequien"」 Ⅰ (AC復興 16)

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 今晩は、先日30年ぶりに初めて手にしたシュッツの「葬送の音楽」の演奏ーウィルヘルム・エーマン(Wilhelm Ehmann)指揮ヴェストファーレン聖歌隊ーを手に入れることができました。学生時代にエーマンの演奏で「葬送の音楽」を初めて鑑賞した時の感動は今でも忘れられません。エーマンはLP時代にはルドルフ・マウエルスベルガーとともにシュッツの権威として多くの名演奏を残していましたが、現在の日本では既に忘れられた指揮者なのかもしれません。しかしその深い信仰に根ざした厳格な解釈は今もって余人の追随を許さないものがあります。
 
 エーマンは日本のハインリッヒ・シュッツ合唱団の指導、助言も行っていたということで、実は彼の精神は現在に至るまで日本に連綿と息付いていたわけですね!今日は東北大震災から8ヶ月目に当たります。そこで今夜はシュッツの「葬送の音楽」を再びアップしてみましょう。尚、これまでの記事は拙著「音楽とこころのロンド」の中からのダイジェスト版でしたが、今回は第二章「生命への自覚」の全文を2回~3回ほどにわけて掲載してみます。
 
 
"Nacket bin ich von Mutterleibe kommen. Nacket werde ich wiederum dahinfahren."
 「裸で私は母の胎を出た。裸でまたそこへ戻ってゆこう」

 「葬送の音楽(ムジカーリッシェ・エクセークヴィエン)」
"Musikalische Exequien"(1636年)
 
 
 独語による聖書の聖句がテノールの先唱から、男声合唱、そして六声部の混声合唱へと拡がって歌われてゆく。およそ音楽による原体験とはこのようなことをいうのだろうか。シュッツの孤高の精神の深みと峻厳なまでの自己対峙が私を生命の内奥へ、生命への自覚へと向わせてゆく。時としてそのあまりに厳しい精神に撥ね付けられそうになりながらも、生命は再び音楽に引き付けられてゆく。厳しく、美しく、直裁に魂を揺り動かす音楽。私の精神の迷いを払拭するようにシュッツの強靭な精神の力が生命に働きかけてくる。
 
 テノールの先唱を耳にした時より、シュッツとの精神の対話が始まる。迷妄、愚直、虚飾ーすべての感情が彼の音楽の前に色褪せ、怒り、悲しみ、哀れみーこれらのあらゆる感情がやがて一つのものになってゆく。自己の生命との出会い。そして音楽を聴き終えた時のいいようのない感動と沈黙ー「葬送の音楽(ムジカーリッシェ・エクセークヴィエン)」。
 
 ハインリッヒ・シュッツ(Heinrich Schutz 1585~1672年)、知りうる限り最も精神的な音楽家。(アルフレート・アインシュタイン)シュッツのような厳しい精神をした作曲家の作品は、現代の私たちが見失ってしまている本源的なものを再認識させる力を持っている。自己の人生の歩みを見直させ、生命そのものを揺り動かす力を。 
 
 「ダヴィデ詩篇曲集」 "Psalmen Davids"(1619年)-イタリア様式とドイツ精神の総合、真正の信仰心の結実。結婚の年、若きシュッツ(34歳)はその記念に「ダヴィデ詩篇曲集」を出版する。彼はこの1作でドイツ音楽の第一人者としての評価を得る。独唱者たちの合唱と主要合唱=複合唱の交錯、師のジョバンニ・ガブリーエリへの思いと神への真摯な祈り。彼の胸にはヴェネチア留学での熱い思いがあったに違いない。僅か二十六歳でイタリア語によるマドリガーレを本国ドイツで出版したその才能が、ドイツプロテスタントの精神を音楽に融合してゆく。
 ガブリーエリの 壮麗な音響はここでは魂の祈りに置き換えられてゆく。聖堂内での二つの合唱の交錯、マドリガーレ的手法、協奏曲的な様式。強烈なコントラストによりそれまでの教会音楽のあり方に新たな様式を投げかけながらも強い信仰心がそれを覆いつくす。「ダヴィデ詩篇曲集」 は若きシュッツの信仰への息吹と生命を託した祈りが感じられる記念碑であり、終生変わることのなかったシュッツの神への絶対的信仰心=祈りを音楽に表現することができた最初の作品である。
 
 しかし、この幸福な結婚にも既に三十年戦争の暗い影が忍び寄っていた。(三十年戦争は二人の結婚の前年に勃発)この時シュッツは自らが辿ることになる運命の道を意識していたのかもしれない。(シュッツの妻マグダレーナ・ヴィルデックはこの六年後に世を去り、二人の幸福な結婚生活に終止符が打たれる)
  
 今夜は最後にシュッツのクライネ・ガイストリッヒェ・コンチェルト第2部(1639年 Ander Theil Kleine geistliche Konzerte)から第3曲、「おおイエス、優しき御名(O Jesu, Nomen Dulce)」SWV 308 をカウンター・テナーのアンドレアス・ショルの歌でお送りしましょう。お楽しみください。
 
 
 

生命への自覚 シュッツ「葬送の音楽 "Musikalische Exequien"」 Ⅱ   (AC復興 16)

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 1618年5月23日、プラハの王宮での暴行事件が発端になり30年の長きにわたる戦争が始まる。近世における最大の宗教戦争・・・人間を救済するはずの宗教が人間を殺戮してゆくこの歴史のパラドックス。しかしこの宗教的色合いさえも後には政治の権力抗争に取って変わられてゆく。(戦争末期には完全にフランス国家対ハプスブルグ家の覇権争いになってゆく)ドイツ一国の宗教戦争からヨーロッパ全土の権力抗争へ、ここに歴史の必然性を見るような気がする。
 
 泥沼化してゆく戦争、疫病(ペスト)の流行、人倫の荒廃による犯罪の横行。戦前千八百万人を越えたドイツの人口が、七百万にまで減少したとも言われている。この戦争に巻き込まれたシュッツはその中で友人や両親、そして妻や娘たちまでも次々に失ってゆく。彼の受けた心の痛手は計り知ることができないものだろう。おそらくは間近に体験した「死」に対して、言葉では言い表すことのできない思いを抱いたに違いない。その思いが魂の救済の音楽となってこの作品=「葬送の音楽」に結実した。
 ペストで死にゆく人々、権力抗争の中で殺される人々、この凄惨な状況を目のあたりにした彼の創作意欲ー作曲家魂は音楽による救済を求めていった。そしてこの救済は個人の葬送のための音楽から、戦争の犠牲になっていったすべての者に対する救済のレクイエムへと大きく発展していった。死者に対し、また生きとし生けるものに対しての救済を使命と自覚した作曲家の命を賭した創作。この作品はそれ故に生きる私たちに烈しい問いを投げかけ、同時に深い感銘を与える。
 
 芸術に深い理解を示し、教養をも持ち合わせていた郷里の領主ハインリッヒ・ロイス・ポストフームス公(彼は終生シュッツのよき理解者であった)の依頼ー公自身の葬送の音楽としてーによって作曲されたこの作品はドイツ語の聖書から十二の聖句と祈りの言葉が採られているが、シュッツは自身の言葉で次のようにこの曲の解説をしている。
 
 この作品の中には、三つの曲(コンツェルト)が含まれる。第一曲は、今は亡き公が生前ひそかに棺を作らせ、棺の外面ー蓋と側面に記させた聖句とコラールの詩節を、ラテン語のミサのキリエとグローリアに習って、ドイツミサの形式に扱ったものである。第二部は逝去された公が棺側の説教のために選んでおかれたテキスト『主よ、あなたさえ私にいれば』により、第三部は亡き公が埋葬のために定めておかれたシメオンのほめ歌『主よ、いまこそあなたはこのしもべを』によっている。ただし、第三部ではもう一つのコーラスが『主にあって死ぬものは幸いである』に始まる別の歌詞を歌う。
 
 
 第一部 ドイツ埋葬ミサの形式によるコンツェルト
 "Concert in Forum einer teutschen Begrabis-Missa"
編成は六声のソロ(ソプラノⅠⅡ、アルト、テノールⅠⅡ、バス)と六声の合唱及び通奏低音による。
 
 「果てしなき救済への歌」-全曲の優に半分を超える長大な「キリエ」と「グローリア」。「キリエ」での深い祈りと「グローリア」での自在なパラフレーズ、イエスの洗礼や復活、そしてそれによる死者の救済。しかしここでは真の救済は行われず、見かけの救済が音楽で表現されてゆく。「主よ、私はあなたの許を離れません。ですから私を祝福してください」"Herr, ich lasse dich nicht, du sagnest mich denn." 終結部で歌われるこの句のように、救済への願いが大きく歌われてゆく。真摯な救済への願いが胸を打つ。
 
 第二部 モテット「主よ、あなたさへ私にいれば」
 Motette "Herr,wenn ich nur dich habe"
 
 「神への讃歌」-高みに達した精神の深さが、大きな余韻を与える。 ここではヴェネチア楽派的に壮大な複合唱形式(四声の二重合唱)が扱われてゆく。華麗さを誇示した合唱の饗宴とは一線を画した精神次元での音楽が展開されてゆく。
 全体は三部から構成される(三つの部分はそれぞれ全休符で区切られる)が、結尾部の「私の心の慰め、私の一部」 "meines Herzens Trost und mein Teil"のトウッティに向かって音楽は推し進められてゆく。このフレーズの繰り返しが強い印象を残し、神への信仰が深い祈りの内に示されてゆく。
 
 第三部 シメオンのカンティクム「主よ、今こそあなたはこの僕を
 "Canticum B. Simeonis"
五声の合唱(ソプラノ、アルト、テノールⅠⅡ、バス)、三声のソロアンサンブル(ソプラノⅠⅡ、バス)と通奏低音の編成を採る。
 
 「神の救済と至福の喜び」-未だ悩みを脱せぬ人間の声と天上の救済の声(三声のソロアンサンブル、二人のソプラノはセラフィムを、バリトンは浄福の霊を表す)とが対比を成して歌われてゆき、ついに地上の声の「異邦人を照らす光り」
"ein Licht, zu erleuchten die Heiden"に天上の声が呼応する。そしてこの二つの声が同一の旋律を採り上げ、「彼らは主の御手にあって」 "Sie sind in der Hand des Herren"と歌われて初めてこの両者は和合する。この和合ー神による真の救済ーを体験した時の歓喜と感動!全曲を通してここで初めて真実の救済が表現されてゆく。
 続いて「主にあって死にゆく者は幸いかな」  "Selig sind die Toten, die in dem
Herren sterben,"と救済の喜びが高らかに歌いあげられてゆき、この感動深い精神のレクイエムの幕が閉じられる。
 
 しかし、ここから私たちの生命の新たな胎動が始まる。
 
 
 さて今日は最後に最近手に入れたウィルヘルム・エーマン指揮のヴェストファーレン聖歌隊の演奏で「葬送の音楽」の全曲をお送りします。尚、演奏時間は第一部
29'48、第二部3'29、第三部5'24です。エーマンによる畢生の名演奏をお楽しみください。この演奏は今もって私が「葬送の音楽」の名盤としてお薦めしている演奏です。(この名演奏が現在1,000円前後の価格【輸入盤】で手に入れることができるのですから喜ばしい限りです。カップリングは同じくシュッツの「ヨハネ受難曲」です)
 
 
 
 
 
 
 
第1部 ドイツ埋葬ミサの形式によるコンツェルト  29:48
第2部 モテット「主よ、あなたさへ私にいれば」   3:29
第3部 シメオンのカンティクム「主よ、今こそあなたはこの僕を」 5:24
 
ウィルヘルム・エーマン指揮 ヴェストファーレン聖歌隊
 
 
 
 

生命への自覚 シュッツ「葬送の音楽 "Musikalische Exequien"」 Ⅲ   (AC復興 16)

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 H・H・エッゲブレヒトは、シュッツの音楽をバロック的態度、ドイツ的態度、プロテスタント的態度、人文主義的態度の四つに基づくと分類している。音楽的には後進国であったドイツに新たな音楽語法をもたらし、後のバッハへと続く道を切り開いたのは四つの態度の中でも特にドイツ精神に立脚したプロテスタント的態度ー神に対する絶対的な帰依とそこから派生する人文主義的態度ー人類救済への願いであろう。彼の創作は強靭な意思の力が常にその支柱を成しているが、その精神力もこの二つの態度から生まれてくるものだろう。
 単独で絶対的な法則の前に立ち、夾雑物を一切交えない純粋な信仰心により得ることのできた自己を律する精神。そしてその精神によって行われる創作活動ー宇宙の法則を自己の生命法則として法則のままに生きること。シュッツの創作はこの法則の実践行為であった。信仰に根ざした倫理的な精神が、私たちの生命に問いを投げかけてくる。簡素で強靭なその表現は常に生命を鼓舞して止まない。シュッツが「ドイツ音楽の父」と呼ばれる所以である。
 
 その後もシュッツは芸術性の高い作品群を次々と生み出してゆく。十七世紀に作曲された最も美しいアクシオンサクレー聖楽劇、「十字架上の七つの言葉」(1645年)、限りなく明るい感動に溢れるオラトリオ「クリスマス・ヒストーリエ(イエス・キリスト降誕の物語)」(1664年)、そして自らの受難を示すような三つの受難曲ー「ルカ受難曲」(1664年)、「ヨハネ受難曲」(1665年)、「ヨハネ受難曲」(1666年)。これらの受難曲はいずれも器楽伴奏を伴わないア・カペラで演奏される。八十歳を超えようとしているシュッツにとって最も魅力的な楽器は膚の温もりを持つ人間の肉声だったのだろうか。
 
 「マタイ受難曲」ードリア旋法に基づく受難劇。"Eli, Eli, lama asabthani."ー「我が神、我が神、何故に私をお見捨てになったのですか」ーこれは印象的な終結部のゴルゴダの丘の場面である。極限にまで切り詰められたア・カペラの受難劇。シュッツの精神が私たちの生命に直接訴えかけてくる。同じ受難を扱った「十字架上の七つの言葉」では一つの絵巻物として描かれたイエスの受難は(それ故にこの作品を聴く者は客観性を保つことができる)、ここではそのままシュッツの受難として描かれ、その受難を引き起こした私たちの生命へ鋭い問いを発してくる。
 
 1672年、シュッツは「マニフィカト」作曲の後、八十七年の崇高な生涯を閉じる。
 
 シュッツの生涯を通した作品は、決して彼一人の閉じられた信仰の中で終わるものではなく、知的に沈潜したその叡智の音楽は常に私たちに対して呼びかけを発している。この熱い呼びかけは彼の音楽の奥底に秘められてはいるが、耳を澄まして彼の音楽を聴き、彼の精神と対峙する者にはその叡智の呼びかけが聴こえてくる。
 シュッツは初期バロック時代の音楽様式の中にあって、その作品の中で人間よ、同胞よと呼びかけながら私たちの生命の変革を願い続けてきた。そして信仰と理性の強い力で、襲いくる逆境の波を乗り切り、それを作品の中へと結実させていった。この生命変革の願いー創造の力が十六世紀の音楽を統合し、初期バロック時代をリードして音楽のあるべき方向を決定していった。そのシュッツの願いが、現代の私たちの生命を呵責して止むことはない。
 
 
 
 
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 さて、今朝は最後にシュッツの作品の中でも最も明るい喜びに満ちたクリスマス・オラトリオ、「クリスマス・ヒストーリエ(イエス・キリスト降誕の物語)」SWV435を「葬送の音楽」と同じヴィルヘルム・エーマン指揮のヴェストファーレン聖歌隊の演奏でお送りしましょう。
 
 「クリスマス・ヒストーリエ」はメサイアーイエス・キリストの降誕の物語が聖書の成句によって歌われてゆく作品です。この作品は福音史家(エヴァンゲリスト)によって物語が語られるイタリアのレチタティーボ様式を採ってはいますが、それまでのレチタティーボ様式とは異なりここではオルガンとヴェイオローネによる器楽伴奏を付け、また幼いイエスを表現する「イエスの揺りかご」と呼ばれる器楽伴奏のモティーフを使うという新機軸を用いながらイエス降誕の喜びの物語が温かくも一縷の厳しさをも伴って語られてゆきます。この作品はあらゆる技法や様式が総合されたシュッツの円熟期の傑作です。全曲は次の10のチャプターに分かれています。
 
 
 1、イエス・キリスト降誕への導入曲「我らの主イエス・キリストの降誕」 4'30
 2、インテルメディウム Ⅰ野宿せる羊飼いに現れし御使い 3'26
 3、インテルメディウム Ⅱあまたの御使い「いと高きところには」 2'29
 4、インテルメディウム Ⅲ野宿せる羊飼いら「いざ我らベツヘレムにゆきて」4'12
 5、インテルメディウム Ⅳ東方の博士ら「生まれて間もなきユダヤの王は」2'30
 6、インテルメディウム Ⅴ司祭長と律法学者「ユダヤの国のベツヘレムなり」2:57 
 7、インテルメディウム Ⅵヘロデ「ゆきてかの幼子のことを」 4'25
 8、インテルメディウム Ⅶヨセフに現われし御使い「起きよヨセフ」 5'16
 9、インテルメディウム Ⅷ福音史家「しかしてヨセフは起き」 3'29
10、我らの主にして救い主なるイエスの降誕・終結曲「我らみな神、我らの主キリ  ストに」 2'24
 
 
 このエーマンの演奏は学生時代に初めて聞いた「クリスマス・ヒストーリエ」の演奏でした。当時「カンターテ」レーベル(発売は日本コロムビア)から「葬送の音楽」、「クライネ・ガイストリヒェ・コンチェルテ」(全曲)、「ヨハネ受難曲」、「ダヴィデ詩篇集」などのエーマン指揮のシュッツの名演奏が廉価シリーズで発売され、私は躊躇することなくその中の何枚かをすぐに購入しました。勿論この作品もその中の一枚でしたが、厳格なエーマンの解釈から生まれるストイックなまでのイエスの生誕の喜びは大きな感動を呼びました。録音こそ少しばかり古くはなりましたが、この演奏は今もって「クリスマス・ヒストーリエ」の名盤の一枚です。それではウィルヘルム・エーマン指揮ヴェストファーレン聖歌隊の演奏でハインリッヒ・シュッツの「クリスマス・ヒストーリエ」ー「メサイアーイエス・キリストの降誕の物語」をお送りします。お楽しみください。
 
 
 
 
 
 
 
Heinrich Schütz

HISTORIA DER GEBURT JESU CHRISTI SWV 435 ( Weihnachtshistorie )
Dresde 1664

Hertha Flebbe - Hans Joachim Rotzsch - Hans-Olaf Hudemann
Westfäliche Kantorei
Direction WILHELM EHMANN
enregistré en septembre 1959
 
 
 
 
 
 

日本人初の讃美歌  「山路こえて」404番   (AC復興 17)

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 こんにちは今日のAC復興は讃美歌404番、「山路こえて」をお届けすることにしましょう。この記事は2007年の5月20日に初めて投稿したものです。
 
 
 こんにちは、日曜日の休日、皆さんはどのように過ごされていることでしょうか。今朝は日曜日だというのに朝早くから目覚めてしまいました。しかしまだ明けやらぬ黎明、その夜明け前から次第にあたりに日の光がさし、明るくなっていく日の出にかけての時間の推移は、本当に厳粛な雰囲気を感じさせますね。今日は讃美歌404番、「山路こえて」を三度お送りすることにしましょう。

 少し昔の話になりますが、あるテレビ番組で「山路こえて(404番)」という讃美歌を聞く機会がありました。
おそらくはキリスト教関係の番組であったと思います。番組では手紙を出された方の若くして命を落とした友人が、この讃美歌に感動して涙を流していたという逸話を紹介していました。
私もこの讃美歌の歌詞とメロディーに触れた時、その美しさと歌詞の深さに、言葉では言い表せない感動を覚えました。私はもとよりクリスチャンではありません、しかしこの時はあらゆる宗教を越えて、素直に感動したことを記憶しています。
 
 それ以来讃美歌にも親しむようになり、今では「主よ御許に近づかん(320番)」、「慈しみ深き(312番、486番)」など自分で口ずさむ作品も多くあります。
 この「山路こえて」は静かな感動を淡々と謳いあげる美しいメロディーを持つ作品です。私は不思議に人生の転機を迎えた時に、何度となくこのメロディーと歌詞を思い浮かべていたことを思い出します。悲しい時、嬉しい時、そして人生の選択を迫られた時。この讃美歌は常に私を勇気付けてくれました。しかし、この曲を聴いた当時は作曲の経緯は全く知らずに、ただ曲の持つ美しさと歌詞に感動していた私ですが、最近になってこの作品の成立した背景を知ることができました。

 作詞をしたのは明治4年に松山に生まれた、西村清雄(にしむらすがお,1871年~1964年)です。西村清雄は明治4年(1871年)松山藩士の長男として誕生しました。成人して後、来日して布教活動をしていた宣教師のジャドソン女史の「夜間学校」の設立運動に共鳴して「普通夜学会」を開設、昼働く勤労青年達の為に学問の門戸を広げました。そして21歳の頃には「普通夜学会」を「松山夜学会」と改称して初代校長に就任します。彼は寄宿生と寝食を共にして苦労を重ねながら、その生涯を教育に捧げました。

 その彼が明治36年宇和島で伝道をしていたジャドソン女史を応援した帰り道に、当時難所とされた法華津峠で夜を迎え、これまでの苦しい体験を峠越えに託して作った詩が「山路こえて」です。当時この峠は厳しい山道に遮られ、伝道活動も大変に厳しかったといいます。彼の詠んだこの詩は簡潔ですが、本当に味わい深い作品です。後にこの詩が歌詞として採用され、日本人が作詞した初めての讃美歌になりました。作曲はアメリカのアーロン・チャビンです。
 
 
 
 
「山路こえて」

作詞:西村清雄

 山路こえて ひとりゆけど、
  主の手にすがれる 身はやすけし。

 松のあらし 谷のながれ、
  みつかいの歌も かくやありなん。

 峰の雪と こころきよく、
  雲なきみ空と むねは澄みぬ。

 道けわしく ゆくてとおし、
  こころざすかたに いつか着くらん。

 されども主よ われいのらじ、
  旅路のおわりの ちかかれとは。

 日もくれなば 石のまくら、
  かりねの夢にも み国しのばん。
 

                            (日本基督教団,賛美歌404番)より
 
 

 「道けわしく、ゆくてとおし、こころざすかたに いつか着くらん されども主よ、われいのらじ、旅路のおわりの ちかかれとは。」

 人生の辛酸を舐め尽くして、本当の苦労をして偉業を成し遂げた人間だけが初めて詩に詠むことができる一節だと思います。本日はこの「山路こえて」を聴いて一日を過ごしてきたいと思います!しかしこの讃美歌は本当に素晴らしい曲ですね。それではごゆっくり鑑賞してください!
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ある愛の詩」、「セントラル・パークにて」  (AC復興 18/19)

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 (You Tubeで見るをクリックして鑑賞してください)
 
 
"Love means never having to say you're sorry"
「愛とは決して後悔しないこと」
 
 
 冒頭の言葉は70年に製作され世界的な大ヒットを記録したアメリカ映画「ある愛の詩」からの有名な台詞で、動画は映画からの抜粋です。この映画の公開当時のことを覚えているのはもう五十の峠を越えた方でしょうか!私は当時小学生でしたが、姉と一緒に映画館に足を運んだことを記憶しています。
 
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 オリバーが最初にジェニーに出会ったのは大学の図書館だった。名家の四世とイタリア移民の娘という余りにも身の上の違う2人だったが、彼らは次第に惹かれ愛し合うようになる。オリバーはハーバードの法律学校へ入る前に父の反対を押し切ってジェニーと結婚。父からの送金は中止されるが、学費や生活費の為にジェニーは働き、貧しいながらも幸せな日々を送っていた。やがてオリバーは優秀な成績で卒業、法律事務所へ勤めるため、2人はニューヨークへ移る。そんな新しい生活が始まろうとしていたその時、オリバーは突然医者からジェニーが余命短い事を知らされる・・・。  
 
               (ALLICINEMSより)
 
 この作品はエリック・シーガルが友人から聞いた実話を小説に書いてベスト・セラーを記録、映画は小説が完成する前にクランク・インし、同時進行で作られていったということですが、小説の方が先に発売されました。アーサー・ヒラーのどこまでもオーソドックスな演出、当時新人だったライアン・オニール(オリバー)とアリ・マッグロウ(ジェニファー)の新鮮な演技と二人の純愛がこころを締め付けました。
 
 「ある愛の詩」の音楽を担当したのは映画音楽の大御所、フランシス・レイでしたが、私には彼が書いたスコアの中でメイン・テーマよりも忘れることのできない作品がありますー「セントラル・パークにて」。この作品は二人がセントラル・パークで戯れるシーンで流されましたが、これが極めて美しいワルツでフランシス・レイの本領発揮といった一作。サウンド・トラックのシングル盤ではB面に収録されていましたが、当時小学生だった私は気分が滅入った時など好んでこの作品を聞いたものでした。また当時なぜかテレビ番組「皇室アルバム」のテーマとしても使われていたのを鮮明に憶えています。
 
 今日は「ある愛の詩」から「セントラル・パークにて"Skating in Central Park"」、「雪の中の戯れ "Snow Frolic"」をオリジナル・サウンド・トラック盤でお送りしましょう。レイの本領発揮の一作を堪能して下さいね。また当時のオリジナル・サウンド・トラックのシングル盤のA面には有名なピアノ演奏によるメイン・テーマではなく、チェンバロやハープをフューチャーした「ジェニーを探せ」が収められていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ある愛の詩」 "Love Story" 70年

監督  アーサー・ヒラー
主演 ライアン・オニール、アリー・マッグロウ
脚本 エリック・シーガル
原作 エリック・シーガル
 製作 ハワード・ミンスキー
音楽  フランシス・レイ
 撮影 リチャード・クラディナ
  編集 ロバート・C・ジョーンズ

  配給 パラマウント映画  CIC
 
 
 

 イヴェット・ジロー   「あじさい娘」

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 こんにちは、今朝はイヴェット・ジローの明るい歌声でシャンソンの名曲、「あじさい娘」をお送りすることにしましょう。
 
 イヴェット・ジロー(Yvette Giraud)は1922年、9月24日にフランスのパリで生まれました。(1916年9月16日生まれという説もあります)彼女は最初レコード会社のタイピストとして働いていましたが、持ち前の美声をレコード会社のプロデューサーに認められ、1945年にプロ歌手としてデビューします。翌46年に「あじさい娘"Mademoiselle
Hortensia"」をリリースし、この曲がヒットを記録、「あじさい娘」は彼女の代表的な一作となりました。
 
 「あじさい娘」はジャック・プラント作詞、ルイギ作曲による作品ですが、屈託のない明るいメロディーと愛する夫に見出された女性の希望と喜びに満ちた歌詞、そしてイヴェット・ジローの歌声の低音の魅力が、リスナーのこころに明るい灯をともしてくれるような楽しい作品ですね。この曲のヒット以降、「あじさいの花」は彼女のトレードマークになりました。
 
 彼女はまた大の日本びいきで、1955年の初来日以降、しばしば日本を訪れてはコンサートを開いています。彼女の歌声を聞いて懐かしいと思われる方も多いことと思います。今日はイヴェット・ジローの歌う「あじさい娘」のオルジナル・ヴァージョンと日本語ヴァージョンをお送りしましょう。最近ではこの曲のように軽快に明るく楽しめる作品が少なくなったと感じているのは私だけでしょうか。それではお楽しみ下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
MADEMOISELLE HORTENSIA"

  Au temps des crinolines
  Vivait une orpheline
  Toujours tendre et câline:
  Mademoiselle Hortensia.
  La belle était lingère
  Comme elle était légère
  Devant ses étagères,
  Mademoiselle Hortensia.
  Tous les galants du Palais-Royal
  Lui dédiaient plus d'un madrigal,
  Et là, sous les arcades
  Les coeurs en embuscade
  Rêvaient de vos oeillades,
  Mademoiselle Hortensia.

  Oui, mais un beau jour...
  Un homme énigmatique
  Entré dans la boutique
  Trouva fort sympathique
  Mademoiselle Hortensia.
  Il prit quelques dentelles
  Il dit des bagatelles,
  Que lui répondit-elle,
  Mademoiselle Hortensia?..

  Je n'en sais rien, je n'écoutais pas,
  Mais les voisins vous diront tout bas
  Qu'un fiacre, à la nuit close,
  Discret, cela s'impose,
  Vint prendre, fraîche et rose,
  Mademoiselle Hortensia.

  Et depuis ce jour...
  On voit dans sa calèche
  Filant comme une flèche,
  La belle au teint de pêche:
  Mademoiselle Hortensia.
  Au bois, à la cascade,
  Aux bals des ambassades,
  Jamais triste ou maussade,
  Mademoiselle Hortensia.
  Elle a trouvé, non pas un amant
  Mais simplement un mari charmant...
  Puisqu'elle nous invite,
  Venez, venez bien vite,
  Rendons une visite
  A la comtesse Hortensia.
 
 
 
 
「あじさい娘」 (日本語訳:壺齋散人)

  むかしあるところに
  ひとりの娘さんが
  つつましく暮らしてました
  その名はオルタンシャ
  物腰はとても軽く
  そして働き者
  人はこう呼びました
  あじさいの娘さん

  街中の男たちは
  あなたに歌を贈ります
  そしてあなたの
  気を引こうと
  みな夢中だわ
  あじさいの娘さん

  でもある日のことです
  不思議な男の人が
  あなたの店を訪れ
  刺繍を手にとって
  値段を聞きました
  でもあなたは
  あじさいの娘さん.

  わたしにはわかりません
  あなたはそう答えたのですね
  その夜 一台の
  馬車が駆けつけてきて
  あなたを 迎えたのでした
  あじさいの娘さん

  その日から
  あなたは 矢の様に
  走る馬車の中で
  桃色の笑顔がきれい
  あじさいの娘さん

  森や 滝を見たり
  舞踏会に出たりして
  いつもにこやかな笑顔
  あじさいの娘さん
  そう あなたは 恋人ではなく
  旦那様を見つけたのね
  あなたの幸せに
  わたしもあずかりたい
  幸せな侯爵夫人
  あじさいの奥さま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ギョーム・デュファイ  「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」  (AC復興 20)

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 おはようございます。今朝はギョーム・デュファイの最高傑作ともいわれるミサ曲、「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」を再び採り上げてみることにしましょう。
 
 ブルゴーニュ楽派の作曲家ギヨーム・デュファイ(Guillaume Dufay 1400年頃~1474年)についてはルネサンスの作品を紹介する度にその名を紹介してきましたが、デュファイは中イメージ 1世の音楽からルネサンスの音楽への大きな転換を図った音楽史上極めて重要な大作曲家です。彼の業績ではミサ曲で同一のテーマを使って全曲を統一するー「循環ミサ」の形式を確立し、それぞれのチャプターを同じ形式(旋律)=「冒頭動機」で始めたことがまず第1に挙げられます。(ミサ「ス・ラ・ファス・エ・パル "Missa Sela face ay pale"[私の顔が青ざめているのは]」は世俗曲(シャンソン)を定旋律にした最も古い循環ミサとして有名ですね)しかしそれ以外にもそれまで3声が主体であったミサ曲を4声主体にしたことや、「フォーブルドン」形式を用いたという功績があり、デュファイは和声の豊かな響きを作り出すとともに後のフランドル楽派への道をも切り開いていきました。この点で彼の功績は後のバロック音楽の大成者、バッハや古典音楽のハイドンにも例えることができます。
 
 デュファイ以前の声楽作品=ミサ曲では3つの声部による作品が主体でしたが(これは三位一体の考えに基づいていたのかもしれません)、デュファイは3声にもう一つの定旋律である(当時はContora Tenor と呼ばれました)第4声を加え、一つには本来の定旋律を与えそしてもう一方にはBassの役割を持たせることで和声の広がりを持たせることに成功しました。デュファイまでの従来の楽曲、ミサではそれぞれの声部のメロディーの流れ=「横の流れ」だけが重視されてきましたが、デュファイは声部を増やすことによって和声=「縦の流れ」をメロディーと同様に重視していきました。この「縦の流れ」=和声の響きを作っていくうえで重要になったのが「フォーブルドン」形式という手法です。
 
 「フォーブルドン」形式というのは和声技法の一つで、簡単なものは定旋律を基にしてその6度下と完全4度下の3声から和声=「縦の響き」を形成します。この平行して進行する和声の単純な響きによってミサの典礼文が聞きやすくなり、同時に和声的にも美しい響きをもたらすことになりました。「フォーブルドン」というのは中世からルネサンスへの移行期にデュファイに先駆けて活躍したイギリスの大作曲家、ジョン・ダンスタブル(John Dunstable 1390年ごろ~1453年12月 24日)などが頻繁に用いた技法で、デュファイもその影響を大きく受けていると考えられています。
 
 ところで、デュファイの生きた時代にヨーロッパで活躍した音楽家たちを総称して「ブルゴーニュ楽派」と呼びます。「ブルゴーニュ楽派」は初期ルネサンス音楽の楽派で、15世紀に現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク、そしてフランス東北部を中心としたブルゴーニュ公国で活躍した作曲家達のことを指します。デュファイの他にもジル・バンショワ(1400頃 - 1460)、アントワーヌ・ビュノワ(1440頃 - 1492)等の大作曲家を輩出し、この楽派は次のフランドル楽派へと続く道を開いていきました。
 
 「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム (Missa Ave regina caelorum)」=「めでたし天の女王」はデュファイの最高傑作のひとつとして名高い作品ですが、定旋律はキリスト教聖歌の「アンティフォナ」から採られており、「アヴェ・レジナ・チェロールム」は聖務日課の「終課」で歌われる 4つの聖母マリアのためのアンティフォナの内の一つです。「アンティフォナ」というのは聖歌などで合唱を2つに分けて交互に歌う歌い方のことで、聖務日課というのは日々の祈りのことです。この聖務日課では「朝の祈り」=「朝課程」と「夕の祈り」=「晩課」が主要な時課とされており、「夕の祈り」の後には「寝る前の祈り」=「終課」が唱えられ、「聖母賛歌」-「レジーナ・シェリ」、「サルヴェ・レジーナ」、「アルマ・レデンプリトス・マーテル」、「アヴェ・レジナ・チェロールム」の中の1曲が歌われます。
 
 
 
 1.イントロイトゥス:「主の霊が地のすべてに」(グレゴリオ聖歌)  3:13
 2.キリエ  7:52
 3.グローリア  7:11
 4.アレルヤ:「来たれ精霊よ」(グレゴリオ聖歌)  2:39
 5.クレド  9:40
 6.オッフェルトリウム:「神よ確かなものにし給え」(グレゴリオ聖歌)  1:24
 7.サンクトゥス=ベネディクトゥス  7:21
 8.アニュスデイ  5:25
 9.コムニオ:「突然天から」(グレゴリオ聖歌) 1:20
 
 
 定旋律に使われた「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」は3声部によって短く歌われますが、テノールがすぐこの旋律に基付いて歌い始めます。これはグレゴリオ聖歌以外のすべてのチャプター=「キリエ」、「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥス=ベネディクトゥス」、「アニュスデイ」で繰り返され、全曲は定旋律と冒頭の動機によってしっかり統一されて、それぞれのチャプターを有機的に関連付けていきます。(「グローリア」と「クレド」にはグレゴリオ聖歌の先唱が入っています)例えば「キリエ」では音楽的な反復はABACDCEFGという構造を採っていますが、DとFは2声または3声で歌われ全曲に変化をもたらし、CとDは2拍子で歌われ、他は3拍子で歌われるというように、この大曲の中で「変化」と「統一」が見事に融合されて高い完成度を示しています。デュファイは彼の持つ円熟した作曲技法の総てを「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」の中で用いたといっても過言ではなく、ポリフォニックな要素、和声的な響き、美しく均整のとれた構造等、どれをとっても彼の畢生の傑作の名に恥じることのない一作となっています。またカノンや後のジョスカンを予見させる模倣様式も見られ、8章の「アニュスデイ」では「哀れみ給え "miserere"」では突然メロディーが変わって劇的な効果を高める手法も使っており、このような用法はそれまでの「教会旋法」では誰もが考えつかなかったものでした。
 
 この作品を初めて聞いた時以来、「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」は愛して止むことのない一作になりました。今日はまずグレゴリオ聖歌の「アヴェ・レジナ・チェロールム」をサント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊,(ソレム唱法)の合唱で、そして久しくこの作品の名演とされてきた、ドミニク・ヴェラール指揮のバーゼル・スコラ・カントルムの演奏で「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」お送りします。お楽しみください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

東日本大震災から3年  アルバート・コーツ  バッハ「ミサ曲ロ短調」 (AC復興 21)  Ⅰ

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 こんにちは、3月11日ー運命のあの日から早くも3年という年月が流れました。しかし依然として政府の復興政策は遅々として進まず、また放射線による子供たちの甲状腺癌の発病増加も懸念されています。しかし政府はこの甲状腺癌については一言も公にしようとはしていません。「アベノミクス」の陰に隠されたこの恐ろしい事実!私たちは少しばかりの経済成長に幻惑されることなく、油断せずに政府に対する監視の目をさらに光らせていかなければいけません。

 震災で亡くなられた方々の御冥福を改めて祈るとともに、いま生を共にしているすべての皆様が幸福を享受できるよう祈りを捧げます。今日はバッハのミサ曲ロ短調の記事を再び投稿してみることにしてみましょう。







  
おはようございます。冒頭に紹介したのはミハエル・グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲です。この演奏を聴いてどのように思われることでしょうか。現在ではほとんどその名前すら忘れられてしまっているイギリスの大指揮者、アルバート・コーツが一糸乱れぬ極めて速いテンポでロンドン交響楽団を指揮する様はまさに巨匠の名に恥じることのない驚異的なものです。ムラヴィンスキーは若い頃にコーツのこの演奏を聴いて、大きな影響を受けたと自ら語っていましたが、彼の演奏する「ルスランとリュドミラ」序曲はこのコーツの演奏を基盤にして敷衍したものといっても過言ではありません。今朝はコーツ指揮、ロンドン交響楽団の演奏によるバッハの「ミサ曲ロ短調」を紹介しましょう
 
 ロシア系イギリス人のアバート・コーツ(Albert Coates, 1882~1953年)は1882年にロシア帝国のサンクトブルグペテルブルグに生まれます。(コーツの父親はサンクトペテルブルクのソーントン繊維工場の支配人として赴任し、ロシアとイギリスのハーフであった母親と結婚しています)コーツは音楽教育をサンクトペテルブルクとドイツのライプチヒで受け、ライプチヒではアルトゥール・ニキッシュの指揮するゲヴァントハウス管弦楽団のチェロ奏者となリます。ここでニキッシュの薫陶を受けたコーツは、1906年にエルバーフェルト(現在のヴッパータール"Wupperta"周辺)歌劇場の主席楽長となり、ライプチヒで指揮者としてデビューしています。エルバーフェルトで指揮者としての経験を積んだコーツは、更に1909年にはマンハイム歌劇場でアルトゥール・ボダンツキーに師事します。当時このようにドイツで本場の音楽教育を受け、ドイツの大指揮者に師事したイギリス人指揮者は極めて珍しく、このこととロシアでの経験が後のコーツの音楽の基盤となっていきました。コーツは翌1910年にはサンクトペテルブルクのマリンスキー劇場に招かれ、劇場の楽長に就任しています。 
 
 1918年、ようやく第1次世界大戦が終結した折にもマリンスキー劇場の楽長というコーツの立場は変わることはありませんでしたが、1919年にはロシア革命による生命の危機を感じ、その難を逃れて母国イギリスのロンドンに戻ります。イギリスではトーマス・ビーチャムが主催するコヴェント・ガーデンのオペラ・シーズンで副指揮者を務めながら、これ以後は主にイギリスを舞台にして指揮者としての活動を続けました。彼が20年代にイギリス楽壇に残した功績は極めて大きいものでしたービーチャムが破産して疲弊しきっていたロンドン交響楽団を支え維持し、その演奏水準を飛躍的に高めていったのは他ならぬコーツ自身でした。また同時代の作曲家ースクリャービン、ヴォーン・ウィリアムス等ーによる新しい作品を聴衆に紹介することにも積極的で、グスタフ・ホルストの「惑星」を初めて公演し、リルムスキー=コルサコフの歌劇「見えざる街キーテジと聖女フェヴローニヤの物語」のイギリス初公演(ならびにロシア国外での初演)を実現させたのもコーツでしたーしかしこれらの功績も20年代以後はすっかり忘れ去られてしまいます。
 
 1923年にコーツはロンドン交響楽団の首席指揮者を退きますが、その後も客演は続けられ、同時にレコード録音も続けられていきましたーホルストの「惑星」、ロシアの小品集、ワーグナーの楽劇の抜粋などがセッション録音されています。しかし1932年、録音の契約期間が切れてしまうと、彼の名は急速にイギリス楽壇から消え去っていきます。以後チャイコフスキーの「悲愴」(デッカ・45年セッション)等の僅かな録音を残してはいますが、1953年12月11日、コーツは南アフリカ連邦のケープタウン郊外のミルナートンで世を去っています。しかしこれほどの功績を残した大指揮者が僅かの間に忘れ去られるとは、遺憾な出来事です。
  
 
 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年3月31日~1750年7月28日)の「ミサ曲ロ短調」は言うまでもなくバッハの残した宗教曲の傑作です。このミサ曲はミサ通常式分の「キリエ」、「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」、「ホザンナ」、「アニュスデイ」という全文をテキストとして包含した典型的なカトリックのミサ曲として書かれており、しかもそれぞれのチャプターは最初に作曲された「サンクトゥス」以降、バッハが逝去する前年(1749年)に渡って作曲されています。しかしながらこのミサ曲は通常のミサとは異なり全曲が4つのパートに分けられています。第1部「キリエ、グローリア」、第2部「ニカイア信条」ー「クレド」、第3部「サンクトゥス」、第4部「ホザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、(ドナ・ノービス・パーチェム)」。それぞれのチャプターの作曲年代は第3部の「サンクトゥス」が1724年、第1部はその10年程後の1733年頃、そして第2部と第4部は1740年以降、1748~49年頃までと一般的に考えられています。
 
 バッハは何故プロテスタントでありながらこのような壮大なラテン語によるカトリックのミサ曲を作曲しようと考えたのでしょうか。実は当時のプロテスタントールター派の教会ではラテン語によるミサも行われており、ルター自身がルーテル教会版の「キリエ」、「グロリア・イン・エクセルシス」、「ニカイア信条」、「サンクトゥス」の使用を認めていました。バッハは実際に典礼で使用するための小ミサ曲を4曲作曲していますー「ミサ曲へ長調」BWV233(1738年?)、「ミサ曲イ長調」BWV234(1708~17年)、「ミサ曲ト短調」BWV235(1737年?)、「ミサ曲と長調」BWV236(1737年~45年)。しかし一度(たび)典礼に用いることを考えると「ミサ曲ロ短調」はあまりに長大な作品であるために、実際のミサとして使うことはできません。このことはバッハ自身が最も熟知していた所でしょう。
 
 バッハが「ミサ曲ロ短調」を作曲した理由については様々に憶測されていますが、明確な理由は分かっていません。しかしおそらくは1724年に「ロ短調ミサ」第3部の「サンクトゥス」を初めて作曲したバッハの脳裏には既にこのミサ曲の全貌が朧げに見えていたことでしょう。カトリック通常式分の「サンクトゥス」は当時のルター派教会でも「主祭日」に歌われていました。10年の後、1733年に作曲された、「キリエ」と「グロリア」ー第1部、この内「キリエ」は、1733年2月1日に没したザクセン選帝侯強健王アウグストの追悼のために、またグロリアはその子アウグスト3世の選帝侯継承の祝賀のために作曲された作品です。(アウグスト3世はポーランド王位継承のためにカトリックに改宗していました)このように「キリエ」と「グローリア」は、1733年にドレスデンの選定侯に献呈されていますが、バッハの当初のミサ曲を完成させるという考えはここでまさに現実味を帯びることになってきます。バッハはこの時点でミサ曲を生涯に渡って完成させることをこころに期したのではないでしょうか。
 
 
 パートⅡに続く
 
 

東日本大震災から3年  アルバート・コーツ  バッハ「ミサ曲ロ短調」 (AC復興 21)  Ⅱ

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 続く第2部と第4部は1740年以降の1748~49年頃の作曲と考えられています。バッハはまさに自身の「死」の直前(1950年にバッハは現世を旅立っています)までこの「ミサ曲ロ短調」の完成に心血を注いでいたことになります。それほどまでにしてプロテスタントであったバッハがこの作品を完成させた理由は一体何だったのでしょう。それはプロテスタントやカトリックといった狭い枠組みを超えた絶対的な「神」に対する彼の純粋な信仰心だったのではないでしょうか。バッハはその宗派を超えた「神」に対する純粋な信仰をカトリックのミサという形で、音楽に表現しようとしたのではないでしょうか。またこのミサ曲は至るところでバッハのそれまでの作品が転用されている点も特徴的です。つまりバッハはこれまでの自身の作品のあらゆる要素をこのミサ曲の中に注ぎ込んだわけですね。
 
 従ってこの作品ではプロテスタント的な要素とカトリック的な要素が混在しています。例えば「ミサ曲ロ短調」の4部構成はプロテスタントの「旧教会聖歌選集」の区分によっています。また「サンクトゥス」ではカトリックのラテン語典礼文の「天と地はあなたの光栄にあまねく満ち渡る」(pleni sunt caeli et 
terra gloria tua)である所を、ルーテル教会版の「天と地は彼の光栄にあまねく満ち渡る」(pleni sunt
caeli et terra gloria ejus) と改訂しており、「グローリア」の二重唱‘Domine Deus’での、「主なる御一人子、最も高きイエス・キリストよ。Domine Fili unigenite,Jesu Christe,altissime」での「最も高き
"altissime"」はライプツィッヒのプロテスタント教会の慣例に基づいて追加されています。更に第2部ではプロテスタントで重要視される「イエスの受難」に中心が置かれています。(カトリックではイエスの復活に重点が置かれます)しかしこれらの総ての2つの要素が純粋な「神」への信仰という一点で結びつき、高い芸術性を持つ結果となりました。
 バッハの作品というのは作品自体が既にそれまでのあらゆるバロック音楽を総合し止揚したものであるわけですから、バッハは彼の純粋な信仰心によってこの「ミサ曲ロ短調」の中で、バロックの音楽様式だけではなく、それまでの宗派に拘泥した信仰のあり方をも総合し、それらを遥かに超えた信仰本来のあり方を音楽の中で実現しようとしたのかもしれません。
 
 近年になって「ミサ曲ロ短調」を聴く機会が多くなってきているのですが、この作品を耳にする度に、「マタイ受難曲」と比肩しうるバッハの傑作であるとの認識を深めています。そして時に信仰という一点で「マタイ受難曲」をも凌いでいる作品であるとも感じます。「西洋音楽のαでありωである」とも評される「マタイ受難曲」(1727 or 1729年)がバッハのライプツィヒ時代の巨大な一つのモニュメントとすれば、「ミサ曲ロ短調」は1724年からバッハの「死」の前年に渡ってそのモニュメントの核を堅固に築き上げていった傑作です。「初めに言葉ありき」ーいわばこの作品はバッハがその人生をかけて本来の信仰のあり方を私たちに訴えた作品ー「神の言葉」そのものを伝えようとした作品でもあったわけですね。
 
 今日紹介するアルバート・コーツ指揮によるバッハの「ミサ曲ロ短調」は、1929年にロンドンで行われたセッション録音です。29年といえばコーツがその指揮者としての最後の煌きを見せていた時代で、オーケストラは勿論ロンドン交響楽団です。しかし私はこの演奏を一聴して驚きを禁じえませんでした。冒頭の「キリエ」の凄まじいまでの魂の咆哮!その神に対する真摯な魂の祈りの叫び!!これだけでもこの演奏はその成功を確約してくれます。演奏は全く弛緩することなく祈りの響きを2時間あまり、終曲まで一気に聴かせて行きます。
 
 しかし、1929年という時点にこれほどまでに完成度の高いバッハの演奏が行われていたとは!ここではコーツの精神がそのままバッハに乗り移ったような凄まじい緊張感溢れる演奏が繰り広げられていきます。コーツの演奏は、彼一流の職人芸に裏打ちされてはいますが、バッハの本来の意図の実現ー「神の言葉」を伝えることを目指した演奏であるといって差し支えないものでしょう。当時を代表する4人のソリストーエリザベート・シューマン(S)、マーガレット・バルフォー(A)、ウォルター・ウィドップ(T)、フリードリヒ・ショア(B)は多少の弱みを覗かせるところもありますが、やはりそれぞれが充実した歌唱を聞かせ、またウォルター・レッグによって創設されたフィルハーモニア合唱団が見事な合唱を披露してくれるのも特筆すべき一点です。コーツによるこの演奏を聞くとバッハの最高傑作がこの「ミサ曲ロ短調」であるという考えも容易に理解することができます。録音は29年としては聞きやすいものになっています。
 
 名盤とされるリヒターの記念碑的な演奏が61年であったことを考えると、それよりも32年も前に録音されたこの演奏の凄さが如実に分かってきますね。(尚、リヒターには61年の演奏以前に56年のライブ録音[モノラル]も残されています)。ともあれ、リヒターだマゼールだ、クレンペラーだ(勿論これらも名演奏ではありますが)、などと言う前に是非一度このコーツの演奏に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。彼のこの演奏の前にはモダン楽器やピリオド楽器などに拘泥することさえもが烏滸がましく思えてくるように感じます。それではアルバート・コーツ指揮ロンドン交響楽団の演奏でバッハの「ミサ曲ロ短調」の全曲をお送りします、お楽しみください。(尚、この録音にはオリジナル音源による欠落ー「グローリア」の冒頭部分=1.Gloria in excelsis,  2.Et in terra paxーがあります。御了承下さい)
 
 
   第1部
I. キリエ (Kyrie)
1.Kyrie eleison (1). 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ロ短調、アダージョ、ラルゴ、 4/4拍子 (C) 。
2.Christe eleison. 二重唱(ソプラノ1、2)、バイオリンオブリガート。ニ長調、アンダンテ、4/4拍子。
3.Kyrie eleison (2). 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。嬰ヘ短調、アレグロ・モデラート、2/2拍子(分割C)。

II. グロリア (Gloria)
三位一体に基づき、緩やかに左右対照的な構造をとる9曲から構成され、中心に「ドミネ・デウス」(主なる神)がくる。
1.Gloria in excelsis. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ニ長調、ヴィヴァーチェ、3/8拍子。カンタータBWV 191の冒頭曲に再利用されている。
2.Et in terra pax. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ニ長調、アンダンテ、4/4拍子。この曲もカンタータBWV 191の冒頭に再利用されている。
3.Laudamus te. アリア(ソプラノ2)、ヴァイオリンオブリガート。イ長調、アンダンテ、4/4拍子。
4.Gratias agimus tibi. 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。ニ長調、アレグロ・モデラート、2/2拍子。カンタータBWV 29「感謝します、神よ、感謝します」 (Wir danken dir, Gott, wir danken dir) の2曲目の転用。
5.Domine Deus. 二重唱(ソプラノ1、テナー)。ト長調、アンダンテ、4/4拍子。カンタータBWV 191の二重唱に転用。
6.Qui tollis peccata mundi. 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。ロ短調、レント、3/4拍子。カンタータBWV 46の前半部分の転用。
7.Qui sedes ad dexteram Patris. アリア(アルト)、オーボエダモーレオブリガート。ロ短調、アンダンテ・コモード、6/8拍子。
8.Quoniam tu solus sanctus. アリア(バス)、コルノ・ダ・カッチャオブリガート。ニ長調、アンダンテ・レント、3/4拍子。
9.Cum Sancto Spiritu. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ニ長調、ヴィヴァーチェ、3/4拍子。カンタータBWV 191の終曲に転用。
 
    第2部
III. ニカイア信条 (Symbolum Nicenum)
左右対照的な構造をとる9曲から構成され、中心に「クルシフィクス」(十字架につけられ)がくる。
1.Credo in unum Deum. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ミクソリディアン、モデラート、2/2拍子。
2.Patrem omnipotentem. 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。ニ長調、アレグロ、2/2拍子。カンタータBWV 171の冒頭曲の転用。
3.Et in unum Dominum. 二重唱(ソプラノ1、アルト)。ト長調、アンダンテ、4/4拍子。
4.Et incarnatus est. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ロ短調、アンダンテ・マエストーソ、3/4拍子。
5.Crucifixus. 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。ホ短調、グラーヴェ、3/2拍子。カンタータBWV 12「泣き、嘆き、憂い、怯え」 (Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen) 第2曲冒頭のシャコンヌのパートの転用。Crucifixusの最後の部分はBWV 12にはなく、新たに作曲された。
6.Et resurrexit. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ニ長調、アレグロ、3/4拍子。
7.Et in Spiritum Sanctum. アリア(バス)、オーボエダモーレオブリガート。イ長調、アンダンティーノ、6/8拍子。
8.Confiteor. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。嬰ヘ長調、モデラート、アダージョ、2/2拍子。
9.Et expecto. 五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス)。ニ長調、ヴィヴァーチェ・エド・アレグロ、2/2拍子。カンタータBWV 120の第2曲の転用。
 
   第3部
Ⅲ. サンクトゥス (Sanctus)
1.Sanctus. 六部合唱(ソプラノ1、2、アルト1、2、テナー、バス)。ニ長調、ラルゴ、4/4拍子・ヴィヴァーチェ、3/8拍子。現在では失われた1724年作曲のソプラノ3声、アルト1声の作品からの転用。
 
   第4部
Ⅳ.ホザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイドナ・ノービス・パーチェム (Hosanna, Benedictus, Agnus Dei, Dona Nobis Pacem.)
1..Hosanna. 八部合唱(複合唱)(ソプラノ1、2、アルト1、2、テナー1、2、バス1、2)。ニ長調、アレグロ、3/8拍子。BWV 215の冒頭曲の転用(ただし共通の祖曲がある可能性もある)。
2.Benedictus. アリア(テナー)、フルートオブリガート。ロ短調、アンダンテ、3/4拍子。
3..Hosanna(ダカーポ). 八部合唱(複合唱)。
4..Agnus Dei. アリア(アルト)、ヴァイオリンオブリガート。ト長調、アダージョ、4/4拍子。失われた1725年作曲の結婚カンタータの転用。同じ曲が、昇天祭オラトリオ(BWV 11)にも使用されているが、明確な差異があるため、同じ曲を祖曲としていると考えられている。
5.Dona nobis pacem. 四部合唱(ソプラノ、アルト、テナー、バス)。ニ長調、モデラート、2/2拍子。「グロリア」の "Gratias agimus tibi" と同曲。
 

 







バッハ「ミサ曲ロ短調」
 
エリザベート・シューマン(S)
マーガレット・バルフォー(A)
ウォルター・ウィドップ(T)
フリードリヒ・ショア(B)
 
アルバート・コーツ指揮
ロンドン交響楽団
フィルハーモニア合唱団
1929年録音
 




ハリー・ニルソン  「ウィズアウト・ユー」

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 今日は、今朝の寒さは厳しかったですね!弥生ー3月ですからもう「木枯らし」の季節も終わってよいはずなのですが。まだまだ寒さが続きそうな昨今です。ところで私には「木枯らし」という言葉を聞くと、必ずといっていいほどこころに浮かんでくる作品がいくつかありますが、おそらく皆さんもそれぞれにこころの歌をお持ちなのではないでしょうか。
 
 「ウィズアウト・ユー "Without You"」ーハリー・ニルソンの歌ったこの作品もその中の一曲で、まだ初々しき小学生だった頃の想い出の歌です。この作品がヒットした頃に、ちょうどビョルンとベニー(アバの男声ヴォーカリストの二人!)の「木枯らしの少女」という曲が日本で大ヒットしていたので、「木枯らし」ときけばこの2曲を一緒に想い出してしまうんです。夢多き小学生の頃、当時は学校から帰る途中にも、にルソンのこの曲がよくラジオから聞こえてきたものでした。オリジナルはバッド・フィンガーの作品ですが、印象的な美しいピアノが入る素晴らしいアレンジとニルソンの持ち前の歌唱力で彼のヴァージョンは一層の魅力を持つ作品になっていました!「ウィズアウト・ユー」はニルソンの作品の中では唯一全米のNo.1に輝いた名曲です。
 
 実はこの作品私のブログでは屡紹介しています。もうブログを開設し6年半以上経っていますが、折りある毎に聞きたくなってくる一作です!(今回でなんと7度目の紹介!通算するとほぼ1年に一回のペースですね)大のお気に入りの作品ですので、ご了承を!!それではハリー・ニルソンの歌う「ウィズアウト・ユー」をお送りします。お楽しみください。(You Tubeで見るをクリックして鑑賞してください)

 



"Without You"
 
No, I can't forget this evening 
Or your face as you were leaving 
But I guess that's just the way the story goes 
You always smile but in your eyes your sorrow shows 
Yes, it shows

今日の夜は忘れない
去って行く君の顔も。
でもこういう風に事は進むのだと思う。
君はいつも微笑んでいるけど瞳の中には悲しみが見える
そう悲しみが。

No, I can't forget tomorrorow 
When I think of all my sorrows 
When I had you there but then I let you go 
And now it's only fair that I should let you know 
What you should know

明日のことは忘れない。
自分がどんなに悲しいか考え
君がいてそしていなくなった今
唯一フェアなことは君に知ってもらうこと。
君が知ってほしいことを知ってもらうこと。

I can't live if living is without you 
I can't live, I can't give any more 
Can't live if living is without you 
I can't give, I can't give any more

僕は生きていけない 生きるというのが君がいないということなら。
僕にはもう与えるものなんてない。
生きていけないんだ 生きるというのが君がいないということなら。
僕にはもう与えるものなんてない。

No, I can't forget this evening 
Or your face as you were leaving 
But I guess that's just the way the story goes 
You always smile but in your eyes your sorrow shows 
Yes, it shows

今日の夜は忘れない
去って行く君の顔も。
でもこういう風に事は進むのだと思う。
君はいつも微笑んでいるけど瞳の中には悲しみが見える
そう悲しみが。

I can't live if living is without you 
I can't live, I can't give any more 
Can't live if living is without you 
I can't give, I can't give any more
 
僕は生きていけない 生きるというのが君がいないということなら。
僕にはもう与えるものなんてない。
生きていけないんだ 生きるというのが君がいないということなら。
僕にはもう与えるものなんてない。

                              訳: HideS
 
 
 
 

ブログ開設7周年!  ムラヴィンスキー シベリウス 交響曲第3番  (AC復興 22)

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 こんにちは、早いもので、本日、拙ブログ^「輝きの時」の開設7周年目を迎えました!正直なところ開設当初はこれほど長く続けられるとは思ってもいませんでした。しかし、この7年の間に紹介した音楽の数々は、すべて私のこころの奥深くにしっかりと刻まれている名曲ばかりです。一説によれば人間の細胞は7年間ですべて新しいものに入れ替わるとも言われています。私もまた気分を一新してブログの記事をアップしてゆこうと思います。このように長く続けられたのは偏に訪問してくだささる方々がいるおかげです。これからもますますよろしくお願いたします。今日は敬愛するムラヴィンスキーのシベリウスを再投稿してみましょう。
 
 7、8年程前にムラヴィンスキーの指揮するヤン・シベリウス(Jean Sibelius, 1865~1957年、フィンランド)の交響曲第3番の幻の音源が発見され、しばらくしてAltusからCDが発売されましたが、このシベリウスの録音はムラヴィンスキーファンにとっては垂涎の音源です。私もCDが発売されるや否やすぐに購入しました!ムラヴィンスキーは交響曲第3番の旧ソ連での初演を63年10月26日にレニングラードで行い、その後4回ほど演奏会で採りあげただけなので、録音テープは存在していないものとされていたようです。しかし翌27日に演奏した、ソ連全土に向けてのラジオ放送のためのマスターテープがペテルブルグのラジオ放送局で発見され、それが未亡人に返還されるに及んで、AlutusでのCD販売が許可され、今回の発売に辿りついたということです。

 ムラヴィンスキーのシベリウスといえば65年のモスクワ音楽院大ホールでの震撼するような肌寒さを覚える「トゥオネラの白鳥」や、シベリウスの自然の摂理との一体感を音に体現したような交響曲7番の名演奏がありましたが、ムラヴィンスキーとシベリウスの作品とは相性が非常に良く、いずれの演奏も作品の持つ厳しい自然との相克や同一化を表現することに成功していました。殊に「トゥオネラの白鳥」は私が今でも愛聴している演奏です。黄泉の国のトゥオネラ川に浮かぶ白鳥の姿と「死の陰」とをこれほどぞっとするまでに冷徹に表現した演奏を私は他には聞いたことがありません。そこにはフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」の主人公レンミンカイネンに迫る「死」の声が聞こえてきます。

 ところでシベリウスの交響曲第3番という作品は人気の高い2番や完成度の高い4番の間に挟まれて、影が薄い存在になっています。(あのカラヤンは遂にこの作品を録音しませんでした!!)私が学生の頃には、当時名盤とされていたコリン・デイヴィス&ボストン交響楽団のLPでシベリウスの交響曲に親しみましたが、この3番の純朴なメロディーが好きで良くレコードを取り出しては聴いていました。「雪解け」を表す大衆的な傑作2番と、灰色のイメージで形而上の世界を表現した純粋に音楽的な傑作4番!!しかしその狭間のこの3番も非常に魅力のあるチャーミングな逸品です!

 思うにシベリウスの初期の交響曲は(ことに1番、2番)まさに自然との相克であり、自己との格闘でもあったのではないでしょうか。1番や2番の分かりやすい大衆的な響きの裏では、厳しく林立する酷寒の自然に果敢に挑むことによって克己を実現していこうとする彼の芸術家としてのまた、人間としての「超克の歌」が聞こえて来ます。そして民謡を思わせるような素朴なメロディーからは同時に彼の芸術的な煩悶が伝わってきます。そしてそのシベリウスの音楽の持つ自然との相克に一つの終止符を打ったのが交響曲第4番でしょう。

 喉の腫瘍摘出の手術を受けたシベリウスはその療養生活から「死」を身近に感じるようになります。その中から生まれたのがこの交響曲第4番でした。ここでは主要主題とそれに有機的関係にある短いモチーフが綿密に組み合わされて構成され、全曲を通して極めて緊張度の高い音楽が繰り広げられていきます。シベリウスは「死」を身近に感じることで、自己と自然との同化を図って行くことが出来たのでしょう。灰色の闇の世界に一条の陽の光が差し込んでいきます。この作品は彼の残した交響曲の傑作です。
 これ以後シベリウスは牧歌的な5番を経て6番、7番と自然との同一化の方へと進んでいきます。交響曲第7番は初演時は「交響的幻想曲」と名付けられて演奏されました。この名が示すように、この交響曲は単一楽章で作曲された幻想曲風な作品ですが、全体が拡大された一つのソナタ形式と考えることもできます。ここでは人間シベリウスと自然との共存が見事に実現しています。その意味でシベリウスの交響曲は森羅万象に潜む神々=宇宙法則(アニミズム)の音化ということもできるでしょう。この作品以降シベリウスは1925年の交響詩「タピオラ」作品112を作曲して、ほとんど作品を発表しなくなってしまうのも、彼が芸術家として、また人間としての在り方を総て作品に表現し尽くしてしまったからなのかもしれません。
 交響曲第3番は次のような構成を採っています。

 交響曲第3番 ハ長調 作品52

 第1楽章 アレグロ・モデラート[ソナタ形式]
 第2楽章 アンダンテ・コン・モート、クワジ・アレグレット [自由な変奏形式]
 第3楽章 モデラート / アレグロ(マ・ノン・タント)[自由な形式] 

 今回のムラヴィンスキーの演奏の録音は1963年10月27日のもので、モノラル録音です。この人の若い頃の録音(1960年代後半くらいまでの旧ソビエトでの録音一体!)は状態がよくないものが多いのですが(このあたりはムラヴィンスキーファンなら周知の事実でしょうが)、なんだかあのフルトヴェングラーの録音状の状態を彷彿とさせるものがあります。今回の録音もやや高音部が割れ気味なところがありますが、ボーナストラックとして擬似ステレオ化されたヴァージョンが付いており、こちらの方では音質が随分改善されています。私はこのボーナストラックの方を好んで聞いています。

 しかしこれだけの演奏が隠れていたとは!当に驚きです。冒頭の第1主題がなんと純朴に響いてくることか!また対立するチェロの第2主題のメロディアスなこと!!第2楽章はこの作品の中で私が最も好むものです。ここでのムラヴィンスキーのアプローチは過度に感傷に浸ることのない、むしろザッハリヒなもの。しかし還ってその彼の解釈が強い印象を生んでいきます。第3楽章、この交響曲の結尾。ムラヴィンスキーのフィナーレの押さえ気味でありながらも圧倒的な表現、これは自然との抗争に勝利した人間の喜びの讃歌。ムラヴィンスキーの演奏は厳しい構築美を築き上げながらも、その奥底には熱い人間の情熱の息吹が常に流れています。私は3番という作品の魅力をこの演奏で改めて実感することができました!シベリウスやムラヴィンスキーのファンでまだお聞きになっていない方にはお薦めの演奏です。
 幻の仰天音源が出現しました。ムラヴィンスキーによるシベリウスの交響曲第3番で、これまで誰も聴いたことがなかったものです。

 当ディスクは初演の翌27日の演奏会ライヴで、ソ連全土へ放送するために録音されました。その後この音源は失われたとされていましたが、昨年ペテルブルグの放送局でオリジナル・マスターが発見され、未亡人に返還されました。未亡人は、この音源のアルトゥスでのCD化を許可、待望の発売となりました。ムラヴィンスキーは1946年にレニングラード・フィルとフィンランドへ演奏旅行を行いましたが、その際、ザンデルリンクとシベリウス邸を訪問し、大作曲家に謁見しています。自身、シベリウスを高く評価していました。

 さて演奏と解釈ですが、これが驚きの名演。贅肉のない研ぎ澄まされた音楽はシベリウスにぴったりですが、当時60歳のムラヴィンスキーの覇気と推進力、さらに異常なまでの音楽の大きさに圧倒されない人はいないでしょう。しばしば現れるフォルテの強烈さはスヴェトラーノフやゴロワーノフにも劣りません。録音もモノラルながら非常にクリアで臨場感たっぷり。当時のソ連放送局の録音技術の高さに驚かされます。さらに、アルトゥスが現代最新技術による同音源の擬似ステレオ化も収録。「擬似ステはちょっと…」という先入観を覆す出来となっております。

 ムラヴィンスキーの未知の音源がこれほどのクオリティで出現するのはまさに奇跡。シベリウスの交響曲第3番の評価さえ変える凄い演奏です。
                                  タワー・レコード演奏評より
 
 それでは最後にムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニーの演奏でシベリウスの交響曲第3番の全曲をアルトゥス特別編集の疑似ステレオヴァージョンでお送りしましょう。お楽しみ下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

馥郁とした巨匠のモーツアルト カイルベルト・交響曲第40番KV550  (AC復興 23)

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こんにちは、今日はドイツの巨匠、ヨゼフ・カイルベルトの指揮でモーツアルトの名曲、交響曲第40番をお送りすることにしましょう。


大阪の道頓堀をうろついていた時、
突然このト短調シンフォニイの 有名なテエマが頭の中で鳴ったのである


これは小林秀雄の書いた「モーツアルト」という音楽評論からの一節です。彼は実際に大阪の道頓堀を歩いていた時にモーツアルトの旋律が脳裏によぎって来たそうです。道頓堀とモーツアルト(交響曲第40番KV550の第4楽章)の予想だにしない組み合わせの妙!しかも冒頭部のあの旋律ではなく、4楽章のメロディーが流れてきたという所に私は惹かれます。この評論は名作とされ、後の音楽評論家諸氏にも多くの影響を与えました。吉田秀和氏はこの評論を読んで、音楽を文章に表現することが出来ることを身をもって知ったそうです。一流の人間は一流を知るということでしょうか。

さてこのKV550は、モーツアルトが作曲した最後の3つの交響曲(3大交響曲 39番KV543/41番KV551)の中では唯一短調で作曲されたもので、大変に人気も高い作品ですね。初演の経緯やその他の詳しいことは分かってはいませんが、その美しいメロディーは聞く者を魅了する力を持っています。おそらく第1楽章の冒頭部はどなたも一度は聴いたことがあるものではないしょうか。この40番で悲しみのシンフォニーを書きあげたモーツアルトはその悲しみ(おそらくモーツアルトは否定するでしょうね!)に止まらずに、次に41番「ジュピター」と呼ばれる巨大な交響曲を作曲します。これはもうモーツアルトの作曲した交響曲の伽藍!殊に終楽章のポリフォニーの技法=フーガの威力はやはり凄いものです!!ここではモーツアルトという一個の天才の底力を示したようなポリフォニーの妙=音楽が聞こえてきます。

交響曲40番の楽曲の構成は次のようになっています。


第1楽章 Molto allegro ト短調 2/2拍子 ソナタ形式 
第2楽章 Andante 変ホ長調 6/8拍子 ソナタ形式 
第3楽章 Menuetto (Allegretto) ト短調・トリオ ト長調 3/4拍子 複合三部形式 
第4楽章 Finale (Allegro assai) ト短調 2/2拍子 ソナタ形式
(この作品には初版と改訂版があり、改訂版にはクラリネット2本が加わります)


この作品は人気の高い名曲だけに名盤も多いのですが、今回は今朝のブログでも採りあげた今年(2008年当時)生誕100週年を迎えるドイツの巨匠、ヨーゼフ・カイルベルト指揮バイエルン放送交響楽団の演奏を紹介してみましょう。ヨーゼフ・カイルベルト(Joseph Keilberth, 1908~ 1968年)は西ドイツのカールスルーエで生まれた往年の名指揮者です。彼は1935年にりカールスルーエ国立劇場(現バーデン州立劇場)の音楽監督に就任して以来、ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団(バンベルク交響楽団の前身)の指揮者や、ドレスデン・シュターツカペレの首席指揮者等を歴任し、、1949年には、戦後チェコスロヴァキアを脱出したドイツ人の演奏家が主体となって結成された、バンベルク交響楽団の首席指揮に就任します。彼は亡くなるまでその地位に止まりました。

また1959年にはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督に任命されましたが、この演奏は彼がその音楽監督であった頃にバイエルン放送交響楽団を指揮したライブ録音です(66年12月8日録音)。一帯にバイエルン放送交響楽団の録音はバランス感覚が良く、非常に聴きやすい優秀なものが多いのですが(このあたりはフルトヴェングラーの指揮した51年のバイロイト盤でも状況は同じです)、この録音も奥行きのあるバランスの取れた非常に優れたものです。何よりもカイルベルトの解釈=指揮ぶりが見事です。オーケストラを教え込んだようなところは微塵もなく、どこまでも自然にこの交響曲を聞かせてくれるその手腕は当に巨匠の技!これほど自然に流れる40番の演奏を私は他では聴いたことがありません。この演奏に到るまでのカイルベルトの血の滲むような苦闘と努力はいかほどであったことか。そしてそれを全く垣間見させることのない境地に達するまでにはどれほどの年月が必用であったことでしょう。しかもここで聴かれる男性的な音色からは、ウィーンの馥郁とした香りまでもがほのかに伝わってきます。実に見事!!

かつてこの作品の自然な演奏をブルーノ・ワルター指揮のニューヨーク・フィルのモノラル盤を聴いた時に一度経験しましたが、この演奏はそのワルター盤をも凌駕しているといって差し支えのない演奏だと思います。これは当に男のロマンを感じさせる名演奏!常に全力投球での名演奏が多いカイルベルトの演奏の中では、彼の円熟の窮みを聞かせてくれるものでもあります。カップリングはブラームスの交響曲2番ですが、こちらもまたカイルベルトの真髄を聞かせてくれる名演!!カイルベルトの音色はどちらかといえば乾いて明るいところが特徴ですが、それがブラームスの音楽をしっかりと包含して枯れることのない名演奏を繰り広げています。またこの演奏と同じようにオルフェオから発売されたベートーベンの交響曲第7と8番も、またカイルベルトらしい骨太なソノリティを持った名演奏でした。

記事を読んで興味を持たれた方は一聴をお薦めします。しかし日本でこれほどの巨匠が一部の愛好家だけに高く評価されている現実は残念なことです。

尚、40番の他の演奏については以前ブログで扱いましたので、そちらを参考にしてみて下さいね。
尚、以前掲載した「悲しみのモーツアルト」のURLはこちらになります。http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/2485646.html
 
それではカイルベルト指揮、バイエルン放送交響楽団の馥郁とした香りの漂う名演奏でモーツアルトの傑作、交響曲第40番の全曲をごゆっくりとお楽しみください。




 




 
 

冨田勲  ドビュッシー 「月の光」 (AC復興24)

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 イタリアの北部にベルガモという地方があります。イタリア留学の時にこの地方を訪れたドビュッシーは音楽的なインスピレーションを受け、ローマに戻ってパリへと帰国して一曲のピアノ用の組曲を作曲します。これが「べルガマスク組曲」です。「ベルガマスク組曲」の「ベルガマスク」は「ベルガモ風」=「ベルガモ地方の」とか「宮廷風の」といった意味合いを持っていますが、特にベルガモ地方の音楽的な要素を使ってはいません。「ベルガマスク組曲」は1890年ごろに作曲された作品で、ドビュッシーがまだ印象派の作風を確立する前の作品になりますが、その点で作品はまた大きな魅力を持つことになりました。「月の光」は「ベルガマスク組曲」の第3曲に置かれています。
 
 全曲は次の4曲から構成されています。
    

1、前奏曲 (Pr?lude) ヘ長調 
 2、メヌエット (Menuet) イ短調
3、月の光 (Clair de Lune) 変ニ長調
4、パスピエ (Passepied) 変ニ長調

 
 私が「月の光」を聞いたのは小学生のころ、家にあったクラシック全集の中にこの作品がアリシエ・デ・ラローチャのピアノ演奏で収録されていました。全曲を聴いたのはその後になりますが、爾来「ベルガマスク組曲」は愛聴して止まない作品の一つになっています。また中学生のころに冨田勲のシンセサイザーによるファースト・アルバム、「月の光」を聞いた時には一つの衝撃を受けました。その斬新で大胆なシンセサイザーの用法!ここで冨田が単純にドビュッシーの作品をアレンジしているのではなく、シンセサイザーを使っての音楽の再創造=作曲を行っていることに甚く感銘を受けました。今日はまずドビュシーの「月の光」の原曲をフジコ・ヘミングのピアノで、そして冨田勲のファースト・アルバム、「月の光」からシンセサイザーによる名演奏をお送りします。お楽しみください。











 
 





スヴェーリンク  「主よ,我らが日々に平和を与えたまえ」に基づく変奏曲  (AC復興 25)

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 こんにちは、今日の午後はオランダのバロック音楽時代に活躍した御贔屓の大作曲家、スヴェーリンクのオルガン作品をお送りしましょう。
 
 ヤン・ピーテルスゾーン・スヴェーリンクJan Pieterszoon Sweelinck, 1562~1621年アムステルダム)はルネサンスの末期から初期バロック時代ー17世紀初頭のオランダのアムステルダムで活躍した作曲家兼オルガニストで、北ドイツオルガン学派の中でも最も重要な作曲家の一人です。彼の即興演奏の腕前は当時北ヨーロッパ一円に遍く知れ渡っていました。スヴェーリンクの作品は、ネーデルランド(ベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス3国)鍵盤楽派の頂点を形成し、北ドイツオルガン学派の中でも指折りの大作曲家の一人とされています。またスヴェーリンクは膨大な鍵盤楽器のための作品の他に、250曲にも及ぶ声楽作品も残しています。
 
 スヴェーリンクの鍵盤楽器のための作品の中に「フーガ」がありますが、単純な主題が次第に複雑なテクスチュアを形成して最後のストレッタを迎えるという形式は、後のバッハの作曲した「フーガ」を十分に予見させるものです。スヴェーリンクはまた変奏曲の名人でもありました。とりわけ有名なのがドイツ民謡を主題にした作品、「わが青春は過ぎにけり」による変奏曲ですね!今日紹介する「主よ,我らが日々に平和を与えたまえ」に基づく変奏曲は、スヴェーリンクがグレゴリオ聖歌の「主よ,我らが日々に平和を与えたまえ "Da pacem, Domine"」を定旋律に使った変奏曲ですが、ここで聴かれる静謐で真摯なオルガンによる祈りの響きは、他の何ものにも代えがたい感動を与えてくれます。
 
 私が「主よ,我らが日々に平和を与えたまえ」を初めて聞いたのが18歳の頃、演奏はグスタフ・レオンハルトのオルガンでした。冒頭から聞こえてくる聖歌の主題から最後の変奏曲まで、およそスヴェーリンクの創作した深い祈りの響きとそこに秘められた熱い情熱、そしてオルガン作曲家としてのスヴェーリンクのドラマトゥルギー=それぞれの変奏曲の展開の妙にすっかり魅せられて、この作品を何度も聞いたことを覚えています。同じオランダ出身ということもあってか、レオンハルトのオルガンとスヴェーリンクの作品との相性は非常に良く、レオンハルトが「魂魄」の演奏を聞かせてくれました。スヴェーリンクの作曲したグレゴリオ聖歌による変奏曲は後のバッハの「コラール変奏曲」に繫がっていくことになります。しかしこの作品のどこか北欧をも連想させるような厳しい佇まいと敬虔で深い信仰を偲ばせるソノリティは素晴らしいですね。今日は不思議とこの作品のメロディーが耳朶に鳴り響いてきました。
 
 それではグスタフ・レオンハルトの演奏で、スヴェーリンクの「主よ,我らが日々に平和を与えたまえ」に基づく変奏曲をお送りすることにしましょう。お楽しみください。
 
 尚、スヴェーリンクの「エコー・ファンタジー」 のURLはhttp://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/56040630.htmlです。また「わが青春は既に過ぎ去り」のURLはhttp://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/56058542.htmlになります。合わせてお楽しみくださいね!
 
 
 
 

 
 
 
 
 
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